暗い森の少女 第四章 ⑧ 仮面の囁き
仮面の囁き
湿った土のにおいがする。
ひんやりとした空気が体の熱を奪っていく。凍えそうなほど寒い。
ぴちゃぴちゃという水音が聞こえた。
水をすくってはこぼして遊んでいる、そんな気配に花衣は目を覚ました。
昼なのか夜なのかわからないほど周囲は暗い。
高い木々には葉が生い茂り、わずかな陽光すら拒んでいるようである。
(ああ)
森だった。
村の境界線にある、自殺をした女の幽霊が出るという噂のせいで大人も近づかない、しかし花衣にとっては慣れ親しんだ森の中である。
もう12月だとういうのに、花衣は夏物のワンピースを着ている。
深い森も沈んだ冬の気温からは守ってはくれない。容赦なく冷たい大気が花衣を肌を襲う。
自分はどうしてここにいるのか、今までなにをしていのか、逡巡するまもなく、人の気配を感じ振り向いた。
冬になったも凍らない緑色の水をたたえたため池のそばで、幼い女の子が遊んでいる。
肩を丸出しにしたピンク色のサマードレスを着た幼女は、水をすくっては遠くに投げるを繰り返していた。
(やめなさい、落ちたらどうするの)
すり鉢状になっているため池に落ちたら大人でも助けることはできない。
花衣は思わず声を出して止めていた。
幼女は壊れた玩具のようにぴたりと動かなくなる。花衣に背中を向けて暗闇に浮かんでいるように見える。
(落ちてもいいんだよね)
(え?)
(落ちてしまえばいいって思っているよね?)
幼女はため池の方を向いたまま笑い出す。鳥の叫びのような金属のような笑い声に、花衣は思わず耳をふさいだ。
(やめて)
(やめて?)
(笑わないで)
(笑わないで?)
(お願い)
(お願い?)
(どうして)
(どうして?)
(お願いだからやめて!)
(お願いだからやめて?)
幼女の哄笑が森に木霊する。
恐怖と寒さで鳥肌が立つ。吐く息も白く、このままここにいたらふたりとも凍え死にそうだ。
幼女は花衣が震えていることが、ひどく楽しそうであった。
ひとしきり笑うと、ゆっくりとこちらに体を向ける。
(……愛子……)
喉から声を絞り出した。
ため池のそばに立っていたのは愛子である。
くすくすと笑いながら、花衣に近づいてきた。
(どうして)
(どうして?)
(どうしてここにいるの)
(どうしてここにいるの?)
(やめて来ないで)
(やめて来ないで?)
(あっちへ行って!)
(あっちへ行って?)
体を丸くして愛子を見ないように顔も膝の内側に隠す。
かさりともぐちゃりとも聞こえる足音が近づいてきた。湿った枯れ葉を踏む愛子の足は、花衣の間近で止まる。
(どうして泣いてるの? おねいちゃん)
花衣は恐る恐る顔を上げる。
視界に、逆さまになった愛子の顔面がいっぱいに広がる。花衣をのぞき込んでいたようだった。
花衣は悲鳴をあげて後ずさった。寒さに凍えた体はうまく力が入らない。
愛子はにんまりとした笑みを顔に張り付かせ、そんな花衣を見下ろしている。
(おねいちゃん、遊ぼう?)
愛子がねだる。花衣は吐き気がした。
(ねえ、遊ぼう?)
(やめて、愛子)
幼女はふと真顔になる。
ふくよかな桃のような頬が徐々に引きつってく。それが邪悪な笑みだと気がつくには時間がかかった。
(愛子じゃないよ)
幼女は嘯くように言う。
(愛子じゃないよ、でも愛子かもしれない)
(え?)
(みんな、おねいちゃんのせいなのに)
笑みは突然消える。
愛子に見える、愛子でないものは、歯をむき出しにして花衣に飛びかかってきた。
幼い柔らかい手が花衣の喉を締め付けながら、小さな体からは信じられない力でため池に一緒に飛び込んだ。
息が出来ない。
苦しい。
肺に泥臭い水が大量に流れ込む。もがいても愛子は鉛のように花衣を水底へと引きずり込もうする。
同じ事を以前にも体験した、そんな記憶が体の深いところから蘇ってきたとき、愛子が囁く。
(死んじゃえ)
「花衣さん」
額に冷たい感触がする。
花衣は飛び上がろうとしたが、その力もなく、ただ視線だけを動かした。
そこは、天蓋のついたベッドの上で、寝汗を濡れたタオルで拭ってくれていたらしい夏木と目が合う。
「ひどくうなされていたわ。……ごめんなさい。私たちのせいね」
「え」
その言葉の意味が理解できなくて、花衣は困惑する。
しかし、倒れる前に瀬尾と夏木から聞かされた話を思い出してきた。
「夏木さん」
花衣ははやる鼓動を抑えきれず叫んだ。
「あなたは誰なの? 私はなんなの? どうして私なの!」
夏木は悲しげに眉をよせる。
枕元にあった洗面器でタオルを洗い、再び花衣の顔を拭く。
気がつけば花衣は泣いていた。それを見ている夏木も泣いている。
白いレースの垂れ幕の中、女2人は声を殺して泣いた。決して誰にも聞かれないように。
夏木は真っ赤な目を花衣に向ける。頬に涙のあとがはっきりあったが、迷いを捨てたような
表情である。
「花衣さんが私の家に泊まったときに話したことを覚えている?」
「うん」
閉鎖的な村にうんざりしているが、そこを飛び出すこともできない自分に苛立っている、という内容だった。
明るい夏木がそんなふうに考えていたことが意外であったが、普段は人に見せないだろう繊細で柔らかい心の機微に触れられて、花衣は嬉しかったのだ。
「生まれてすぐに、親に決められた婚約者がいたことも話したよね……それが、直之さんのお父さんだったの」
「……」
「瀬尾の当主……直之さんのおとうさんはご自分のおかあさん、直之さんのひいおばあさんのことをとても大切に思っていたの。それは熱狂的に。明るくて美しい母親を愛していた」
夏木は天蓋を持ち上げ、部屋に飾られている肖像画を花衣にも見せるようにした。
絵の中の女性は屈託ない笑顔を振りまいている。
「どういういきさつがあったかはわからないけれど、直之さんのおとうさんは母の恥部を知ってしまった……自分の異父兄が秘密裏に養子に出されていたことに。そして母はそのことをまったく覚えてないということに」
夏木は天蓋を元に戻し、ベッドの傍らの椅子に座った。
「どんな葛藤があったんだろうね。直之さんのおとうさんは悩み苦しんだと思う。父親にも何度も尋ねたらしいわ。でもはぐらかされるだけで異父兄のことは分からずじまい。その間も母はこの家で父に大切にされて真綿でくるまるように暮らしていたのだけど……ある日気がついたのね。父親が決して母を外出させないことに。まるでこの家は大きな鳥かごで、母は閉じ込められているようだって」
「……」
「私もこの村のことを調べて痛感したけれど、秘密は暴かれるためにあるみたい。瀬尾の家では徹底的に葛木家のことは隠されていたけど、直之さんのおとうさんは、母が旧家の生まれで婚約者もいたのに自分の父親に嫁いだことを知ってしまったの」
夏木は憂鬱なため息をつく。
「勘違いをしていたの……。母は無理矢理自分の父親に攫われて妻にされてしまったと。異父兄は婚約者の子供で、母はその子まで取り上げられて、この家という監獄に閉じ込められているのだと」
「そんな」
「若い頃の妄想だったんだと思う。直之さんのおとうさんは、ひいおじいさんに比べて胆力に欠けていると言われていたから、劣等感もあったんだわ、きっと。大切な母をお金と力で従わせている、そんな勘違いをしたまま成長してしまったのね」
「でも」
「この部屋の絵を見たでしょう? もともと芸術家気質で夢想家だったのよ。瀬尾家の跡取りということで十分な教育も受けられて、絵画や音楽を習うことが出来たけど、恵まれていることには鈍感だったみたいね」
夏木は苦く笑う。
「戦争が終わってすぐ、瀬尾家にみすぼらしい夫婦が子供を抱いて訪ねてきた」
夏木は固い声で話し始めた。
「都会で男の両親と暮らしていたけれど、空襲で両親が亡くなってしまい、生前父親から聞いていた瀬尾の家を夫婦で頼ってやってきたの。直之さんのひいおじいさんはとても驚いて、その夫婦が妻……直之さんのひいおばあさんね……に会う前にさっさと家を買って与えて、瀬尾家の事業のひとつも任せたの。その男の両親の教育のお陰か、すぐに仕事を覚えて会社の中核人物になっていたわ。生活が落ち着いた頃、二人目の子供にも恵まれて順風満帆だった。……その男がひどい事故を起こすまでは」
「……」
「事故で足を悪くした男は仕事も続けられなかったけれど、直之さんのひいおじいさんは金銭的な援助を続けていた。今までも自分を差し置いて父に重用されるその男のことが気に入らなかった直之さんのおとうさんだったけど、ここに来て不思議に思ったのね……自分の父親は、母には優しいけれど、仕事では非道なこともやっていると知っていたから……そして調べられる限り調べて、その男が母の最初の子供、自分の異父兄だと知ったのよ」
夏木の目から光が消えていく。この白い部屋の白い天蓋の中で、そこだけ落とし穴のように不吉な色を宿し始めていた。
「直之さんのおとうさんは最初は動揺したかもしれないわね。でもすぐに繊細な夢想家は、貴種流離譚のような物語を想像してしまったの……高貴な血筋の末である自分の異父兄に試練が与え続けられている、ってね。でも、男に真実を伝えることは出来なかった。だって、男は自分の父にも可愛がられ、母も真実を思い出したら、自分のことなどどうでもよくなって、その男だけを愛するようになるかもしれないし、もしかしたら母は男を連れて、高貴な人が住む神秘的な谷に帰ってしまうかもしれないから……。だから、おじいさんは自分が出来ることで精一杯のことを不遇な異父兄にしてあげようと思ったの」
口元は笑っていたが、目だけは強い悲しみと怒りを浮かべている。
「当時4歳だった自分の息子と、2歳だった男の娘を婚約させたの。経済的な援助はこれからもするし、せめて異父兄の娘を瀬尾家に迎えて、一生をなに不自由なく暮らさせる……自分の母のように……それが直之さんのおじいさんが出した最善策だった」
「……」
「もうわかっているよね……? その息子が直之さんのおとうさんで、男の娘は……私だわ」
途中から予想はしていたが、夏木からはっきりと告げられると、花衣の胸には苦いものが広がった。
「直之さんのひいおじいさんは反対はしたけれど、その頃からひいおばあさんの痴呆が始まってしまったの。ぼけていってしまったのね。まだ若かったんだけど……特に暴言を吐くとか徘徊するといったことはなかったらしいけれど、少しずつ体から魂が抜けるように呆けている時間が増えて、ひいおじいさんは治療してくれる医者を探したり忙しくて、子供同士の婚約に時間を割いていることは出来なかったみたいね。夢見がちな息子らしい提案だと軽んじていたのもあるんだろうね……まさか、その男が息子の異父兄であることがばれているなんて思いもしなかった」
「……夏木さんは、でも」
「そうね」
夏木は凄絶な笑みを浮かべる。
「私は直之さんのおとうさんの妻にはなれなかった……だって」
夏木の瞳に涙が盛り上がったきた瞬間、部屋の扉がゆっくりと開いた。
「いいかな」
涼やかな声を持ち主は、手に銀の盆を持っている。
「夏木さんみたいにうまくはないけれど、紅茶をいれてきたよ」
水色のシャツに凝った網目模様の黒いベストを着た瀬尾は、あたたかい湯気の上がるカップを花衣に差し出す。
「夏木さんも飲んで?」
差し出されたカップを夏木は震える手で受け取った。
空虚な瞳も浮ついた様子もなく、いつも学校で見せている礼儀正しい、明朗で賢い少年の顔でふたりを見ている。
今まで花衣に向けられた優しさ、夏木に対する明るく素直な感情も、作り物だったのだろうか。
「夏木さん」
瀬尾は礼儀正しく尋ねた。
「葛木さんにどこまで話したの?」
「……私と、直之さんのおとうさんが婚約した所までです」
「そう」
瀬尾は頷く。
「僕は愛や恋を信じない」
淡々と話し出す。
「僕みたいな子供がこんなことを言ったら、経験もないくせにとか、ませた子供だって言われるのはわかっている。でも、愛だ恋と綺麗な言葉に隠しているけれど、それはただの『執着』で、究極に『相手を自分の思い通りにする』呪いのようなものだと思っている。……ひいおじいさんがひいおばあさんと結ばれた過程を聞くと、『運命の恋』のように感じるけど、結局それも、『執着した相手をどういう手段を使っても手に入れて、自分の支配下に置きたい』……そんなものじゃないかと、僕は思うんだ」
「……」
「僕のおじいさんが、ひいおじいさんがひいおばあさんのことをこの家に閉じ込めていたって思い込んでいた話はした? ……そう。うん。僕はおじいさんのことが決して好きではないけど、それは真実をついていると思うんだ。そしておじいさんは母への歪んだ情愛を、母の産んだもう1人の子供のさらにその子、夏木さんをこの家に閉じ込めることで、近親相姦の罪を犯すことなく、叶えようとした」
「直之さん……」
「夏木さんだって気づいているでしょう? 変な話、夏木さんのおとうさんが女の人だったら、おじいさんは無理矢理にでも結婚していたと思うよ。戸籍上は他人なんだから。ひいおじいさんが真実を語れないことを逆手に取ってね……まあ、あの頃のひいおじいさんは元気だったろうから、そんなことをしたら大変な目にあっていただろうけれど」
「……」
「それだけ、おじいさんは自分の母親に執着していた。ひいおばあさんがどんどん老いてぼけてしまったあとは、この家に帰ってくることも少なくなるっていう身勝手なものだったけど。この部屋の絵を見ればわかるでしょう? ひいおばあさんが元気で綺麗だった頃の絵しかない。少女時代の絵は想像で描いたみたいだけどね。なにを考えながら描いたんだろうね?」
瀬尾は笑顔を消さない。
「夏木さんをこの家の嫁として迎えるのが、おじいさんの『恋の成就』だった。僕のおばあさんも亡くなっているんだから、自分の後妻にでも愛人にでもすればいいのにね……ごめんよ、夏木さん……『正当な瀬尾家の嫁』として、夏木さんを幸せにしたかったんだろうね……でも、それは意外な形で裏切られてしまった」
夏木は思わずといったようにうつむいた。
「僕のおとうさんは都会の大学に行ったんだけど、そこで3歳年上の女性と知り合う。おとうさんはその人のことをなんとも思っていなかったけど、先輩として親しんでいたらしい。……おとうさんが二十歳の誕生日に、友人たちが開いてくれたパーティーで前後不覚になるまでお酒を飲んで、翌朝、その女の人が隣で裸で寝ているのを見るまでは」
「え」
花衣は息を飲む。
「おとうさんは逃げるように帰省してきた。別にその先輩のことを好きだった訳じゃない。おとうさんは子供の頃からの婚約者が好きだったから。いきなり帰って婚約者の元を訪れ、泣いて取り乱した父は、思わず婚約者とも一夜を過ごしたらしい。……ね? 夏木さん」
夏木は身の置き所がないように震えている。
「しばらくこちらで過ごしていたけど大学のこともあるし、おとうさんはしぶしぶ都会に戻った。そこで待っていたのは、先輩が妊娠したという噂だった」
「……」
「当時、瀬尾家の事業は傾きかけていてね。ひいおじいさんは一線を退きおじいさんが跡を継いだけど、もともと経営手腕はなかったみたいだ。……先輩の実家は大変な資産家で、嫁入り前の娘を妊娠させることは許しがたいが、責任を取るなら許すし、経済的な支援もすると持ちかけてきた……そう、僕のおかあさんの話だよ」
瀬尾の声に感情はない。
「おじいさんは悩んだけれど、会社をつぶすわけにはいかなかった。泣く泣くその話を受けたあとに、婚約がなかったことにされた人が妊娠していることがわかったんだ」
「直之さん」
夏木は声を絞り出す。
「おじいさんは歓喜した。資産家の娘の子など流れてしまえばいいと思った。せめて女なら嫁にだせばいい。でも、生まれたのは男の僕で、数ヶ月遅れて生まれた元婚約者の子供も男の子だった」
瀬尾はにっこりと笑う。
話の凄惨さに似合わない、天使のような笑顔であった。
「だから、おじいさんはおかあさんのことも、僕のことも嫌いなんだよ。瀬尾家の正当な跡取りは、葛木家の血を引く婚約者の産んだ子供だと思っている。……ね? 夏木さん」