物分かりのいいふりをして諦めてないか
最近、MusicUnlimitedでなく、 iPhone4sで音楽を良く聴いている。
年払いしてるんだから、使えよサブスク。
まあ、聴くときは腐る程使ってるので、たまにはいいだろう。
当然だが、好きな曲しか入ってないし、何を聴いてもだいたい落ち着くのだけど、やはりその中でも、かなりのお気に入りというのは何曲かある。
クレヨン社の、痛みも、その一曲だ。
データ化してるけど、CDを捨てれない。
どの部分も好きだが、最後の、この畳み掛ける歌詞がとても好きだ。
この歌は、10代の時、たまたま聴いていたラジオで流れ、ものすごく好きになってしまった。
でも、なかなか購入に至らず、二十歳の時に行きつけのCDショップの店長がなんでかくれた。
私は貰い物をよくする方だが、人とは仲良くしといて損はない。
しかし、アルバムを貰ったけど、痛みの他は興味なく、ほぼ聴いた事がない。
各方面に謝罪。
でも、今聴いても、新しい気がする。
コロナ前に、カラオケで歌ったら、北も歌詞に感銘を受けたらしく、いい歌だなと。
私は団塊世代ジュニアくらいの年代だが、あとからゆとり世代だのさとり世代だのひかえていて、なんだか、熱くなるのが悪い風潮、というのを確かに感じながら生きてきたのだ。
だが、結局私を私はたらしめたのは、ひたすらな努力だったし、学歴のない私にとって、とにかく前進しよう、明日へ向かおうと言う強い意志しかなかった。
仕事していても、なに本気になってるの?という人はいた。
でも、じゃあいつ本気になるんだ。お前は。
イライラして、ああこいつには期待できないと自分の仕事ばかり増やして、責任を負って、走る切るまで走り切り、そうして倒れてしまったのだから、やはり、間違った生き方なのかもしれない。
だからって、どんな時でも自分らしさは捨てれないのではないか?
去年までの廃人、人間外の生物だった時期を除けば、結局私はいつもバタバタとなにかして、前に進もうと足掻き、不安定な足元でも不安を振り切るように生きる術しか知らなかった。
それが正しいのかなんて、私にはわからないし、誰にも分からない。
また、わかったように諭されるのはごめんだ。
なまぬるく生きている人は、私の視界に入らなければイライラもしないし、関わりも持たない。
でも、同じように張り詰めた弦のように生きている人とも、やはり同族嫌悪でうまくいかない。
まあ、こちらも大人になって、人間の多様性についても受け入れる事ができるようになったし、受け流すことすらできるようになってきた。
年を取ったな。
まあ、秋で50だ。
若い頃のようなままでは流石に生きれない。
でも、根本は変わらないから、私は毎日何を成し遂げないとなんて無価値な存在だと絶望するし、焦りすぎて体を壊して、北を苛立たせる。
三つ子の魂百まで、という言葉を、私は芯から理解できない。
幼少期は本当におっとりした、内気で、はにかみ屋の女の子からでしかなかったのだから。
常に焦燥感がある。
まあ、貯金を切り崩して、実家の援助に頼って生きている、独身子なしの女なのだから、不安は不安なのもあるけれど。
もっと、深いところから、立ち止まるな、後ろを向くな、前へ急げ、と言われ続ける気がしている。
もっといくらでも楽な生き方はあるはずだけど。
それは、私の人生ではない。