
自分色の幸せを探しに行こう
ダイエットに関する本のKindle出版
「ダイエット」に適当にまとめっていた記事の一部を、「痩せても幸せになれない人たちへ」へ移動し、Kindle本に載せる予定に新しく記事をアップしてきた。
とりあえず、一冊分の記事は書き終え、Kindle本用の記事も追加し、手直しはまだするつもりだけれど、しばらくは「痩せても幸せになれない人たちへ」の定期的な記事のアップは終わった。
新しい世界に飛び出すときの私は、いつも勇敢である、とは言わない。
心の底から望んでいたことがまさに叶おうとするとき、急に尻込みしたり、強烈な不安に押しつぶされそうになったりする。
「こんな当たり前のことばかり書いた本に意味があるのか」
「私は生態学や心理学の勉強などしたこともないのに、こんなことを書いていいのか」
こう思った。
今も思ってる。
しかし、出版する予定の本「痩せても幸せになれない人たちへ」は、もちろん実話であるけれど、「ダイエットに成功した人間の向こう側」を、少しだけストーリー性を持たせて書いたつもりだ。
私は、小難しいノンフィクションも実用書も書けない。
私はどんなことでもエンターテインメントになってしまうのだ。
ゴールは、終わりではない
未婚の私が言うのもおかしいが、「結婚は人生の墓場だ」という言葉がある。
また、昔は結婚することを「ゴールした」などいったものだ。
しかし、墓場に掃除やお布施やらなにやらメンテナンスがいる。
結婚だって、結婚式をあげたら終わりじゃなくて、その後の生活や妊娠や子育て、もっとリアルなら、最近結婚式代でローンを組む人もいるそうだから、その支払いが待っている。
私は、子供の頃から、「主人公は死んじゃったけど、この死体の片付けは誰がするんだろう」とか、「犯人捕まって終わったけど、この家の明らかになった陰惨な事実は、この一家を破壊するのでは?」と考える、頭でっかちなへんな子供であった。
(死体の片付けというのは、叔父が葬儀屋で働いていて色々話を聞いていたせいだと思う)
恋敵をはねのけてハッピーエンドで終わったけれど、そんな男、また浮気するのでは?
敵を倒して歓喜の絶頂にいるけれど、戦うことしかしらないこのひとは、明日からどう暮らすんだろう。
「ダイエット」してそこで終わりなら、世の中こんなにもダイエットの情報にあふれていないだろう。
自分が気持ちいいことをしたい
私は恵まれていて、「自分がしたい職業」を見つけられ、さほど苦労せず就職できて働いてきた。
しかし、「就職成功」で話は終わらない。
面倒な人間関係、ちょっと苦手な作業、新しい知識を常に自分で調べて頭に入れていくこと、クレーマー対応など、全ては書き出せないが「やりたかったこと」ばかりしていられる訳ではない。
「これだけの給料をもらっているから」
と自分を納得させることで乗り切ったこともある。
何回か転職しているが、最後の転職先となったモバイル系の仕事は、ルート営業であったけど、人手の足らない店舗のポスティングなど頼まれることもあった。
ハイヒールも制服のうちとカウントされていたので、長時間歩くことになるポスティングは敬遠されていた(スニーカーに履き替えることも許されなかった)。
地図の読めない、徹底的に方向音痴の私はこの仕事に大変困惑したのだけど、お金もらってウォーキング出来るのか、と切り替えてチラシの山を投函していった。
いつのまにか「ポスティング隊長」というあだ名がついていた。
今もポスティングの募集があると心が揺れる。
「金を得る」でも「運動代わり」でも、それが自分にとって気持ちいいから続いたのだ。
ヒールで歩くと自然とふくらはぎも鍛えられたしね。
地球が爆発したって宇宙は終わらない
「我思う、ゆえに我あり」と言ったデカルトの死体だって、結局誰かが埋葬した。
野原に転がされたって、獣が食べて、微生物が分解して、風雨にさらされて、「自我」がなくなったってひとは勝手に消えてはくれない。
だから、ダイエットに成功したからってそこで終わりではない、そうして、それが幸せとは別のただの「結果」であるな思えてきた。
自分のマガジン「ダイエット」を読み返すと、思考がふらふらしてるから書いた自分ですらなかなか真意に気づけないが、結構以前から、「痩せたことと自分の幸せであることは直結しない」というテーマでくり返して書いている。
Kindle本にしようと思わなかったら、この気づきもなかった。
「ダイエットに成功した」という事実は、本当に素晴らしいし、褒め称えたいし、自慢していいと思う。
けれど、リバウンドの恐怖、食や運動への認知の歪み、そうして、「痩せたのに私は誰からも認めてもらえない」という感情。
「痩せる」と「自分の幸せ」が直結してないなら(今後モデルになる予定があるとかいうひとはのぞいて)、とにかく、「自分の求めることってなんだろう」と考えて欲しかった、また私も考えて、まだまだ考えている。
可愛い服を着て、カフェにいってお茶をしながら本を読むって、痩せてなくても出来るし。
太っていても、別に「デブ専」っていう嗜好の男性でなくても付き合える。私もそうだった。
自分を取り巻く世界から置いてけぼりを食らっているような気分になることと、私が、あなたが太っていることは違う、ということを話したかった。
私たちが痩せても太っても、世界は終わらない。
けれど、考え方ひとつで、たとえ体重が昨日より1キロ増えていたって、幸福感を感じれるのだ、そういう生き物だ、人間は。
具体的な痩せ方は人それぞれだから、「自分が気持ちいい」やり方で見つけてもらうことにした。
人生100年でも、あと50年しかない
Kindle本は、出来たら1月1冊ペースで出していく予定。
2冊目もダイエット本にするつもりだから、また、「痩せても幸せになれない人たちへ」の定期的な記事のアップもあると思う。
興味の対象がふわふわあっちこっち行くので、3冊目以降はこれだ!っていうテーマはまだ未定。
無理して1月1冊ペースにしなくてもと思ったりもしたけど、毎日毎日こうやって書いて、私は書くことが好きだし、好きだから続けられるし、Kindle本を出す、という目標があると燃える体育系な所があるのだ。
そうして、秋が来たら私は51歳。
私が100まで生きるとしても、50年でやりたいことはやり尽くせるのだろうか?
ましてや、こんなあんまり丈夫でない私が100まで生きたら、それこそ奇跡か近代医学ってすげーって本書くよ。
濃密に生きたい。
その夢に、確かに「痩せた」ってことはあんま関係ないね。