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Wikipedia地獄の四丁目(三木清 1)


三木清が留学していたハイデルベルク大学の図書館
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URL =
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Heidelberg_Universit%C3%A4tsbibliothek_2003.jpg

三木清とは

三木清は日本の哲学者です。1897 年(明治30年)に兵庫県たつの市生まれで、1945 年(昭和20年)に奥多摩刑務所で獄死しています。
人によっては

とか

「読んだ!」という方もおられるかもしれません。
「人生論ノート」200万部も売れており、哲学者にしては珍しいベストセラー作家でもあります。
またパスカルが哲学者であることを日本に知らしめた哲学者でもあります。

しかし、彼はマルクス主義に傾倒したり昭和研究会に参加したりと、右へ左へと時流に流されるまま思想が変遷していった哲学者です。

なぜ三木清?

三木清を知ったのは中学生の時です。
とても怖い、暴力上等の数学の先生が 3 年生のとき数学の担任になり4月から、戦々恐々としていました。1 年生と 2 年生の数学の担任は京都大学数学科卒で、とても優しい先生でした。いわゆる「褒めて伸ばす」タイプの先生でしたので、数学が好きになり数学の成績は良かったのです。
それに引き換え、3 年生の数学の担任は「叩き込む!」タイプの先生で、宿題忘れようものなら1時間「正座」が優しいほうで「往復ビンタ」もありました。
そんなオッカナイ先生だったのですが、3 年生の中盤になり思春期にさしかかった頃に、急に応接室に呼び出されました。
「なんかやったっけ?期末テスト 100 点だったので、叱られる理由はないと思うけど…」と思いながら応接室に行きました。
で、いきなり「お前悩んでるだろ?」と切り出されました。「ギクッ!!」っとしました。
確かに悩んでました。クラスの担任にも言えない悩みがありました。まさに、「手紙 〜拝啓 十五の君へ〜」状態でした。
家庭のことと進路のことで誰にも言えず、悩んでいたことがありました。
私の父は「酒癖が悪く」酔っ払っては私に暴力を振るってました。
私も反抗期だったので、やり返すこともしばしばで「家にいたくない」といつも考えていました。
その頃は、まだ中卒で働きに出る人が 1 学年に一人くらいはいました。そんな時代なので「もう少し勉強したいけれど、家も出たいし…遠くの街で就職して夜間高校へ通おうかな?」と真剣に考えていました。
見てる人は見てるんですね。「高校へ行け!!逃げるな!!」と言って渡してくれたのが「人生論ノート」と「読書と人生」でした。

激烈で衝撃的な出会いでした。

  1. 「人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。」(三木清『人生論ノート 希望について』より引用)

  2. 「希望と言ふものは生命の形成力以外の何物であるか。我々は生きてゐる限り希望を持ってゐるといふのは、生きることが形成することであるためである。」(三木清『人生論ノート 希望について』より引用)

  3. 「希望と現實とを混同してはならぬといはれる。たしかにその通りである。だが希望は不確かなものであるが、希望はつねに人生といふものほどの確かさは持っている。」(三木清『人生論ノート 希望について』より引用)

まだまだ引用したい箇所は沢山あるのですが著作権の問題もあるのでこれくらいにします。
私は一気に三木清の信者になるとともに、暴力上等教師に感謝の気持が湧きました。一気に私の心を覆っていた雲が晴れ上がりました。
これが三木清との出会いです。

また、ダラダラと長文になってしまいました。
三木清については書きたいことがたくさんあるので、地獄の四丁目は長編になると思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

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