見出し画像

人生に必要なものは、勇気と覚悟と諦め

私は昔から 「大学を出て、一般企業に勤め、結婚し、家族を築く」 ということに憧れも興味もなかった。

なぜかは分らない。

それが 「自分の人生と関係がある」 と思うことはなかった。
考えナシだったとも言える。
そして現在形でも考えナシなのだろう。


大企業に就職すれば安泰か?

私の母親は SHARP の製品が好きだった。
確かに昔の 「目の付けどころが、シャープでしょ。」 というキャッチ コピーどおり、SHARP は色々と先進的なものを売り出していたような気がする。

特に印象的だったのは PDA だ。今ではもう使われていないのかもしれないが、パコソン ショップでバイトしていた私は 「PDA ってよく売れるなぁ😳」 と思っていた。
2000 年代初期の頃だ。

その時は色々なメーカーのものが売れていたように思うが 「あれ、これって SHARP のザウルスっていうものと同じなのではないか?」 と途中で気づいた。

SHARP のザウルスは 1993 年に発売され、日本での PDA 界の先駆者となったようだった。

おお、やっぱり SHARP は凄いんだ!😳😳

という印象を抱いた。


数年後、私は総武線沿線で働いていたので、市ヶ谷駅にあった SHARP ビルをよく目にしていた。
そんなビルの "SHARP" の看板がいつの間にか "TPK" になっていた。

私が知らない間に SHARP の経営は傾き、今では台湾の企業に買収されてしまった。

「あの SHARP が!🤯🤯」 と、私としてはとてもびっくりしたものだ。


結婚すれば安泰か?

私は 10 代の頃から (自分も含め) 「人の心ほど移ろいやすいものはない」 と思っていたため、答えは否だった。


パートナーと私は年齢が 3 つ違うだけだが、彼は認識を持ってバブルを経験しているし、割と 「昭和」 的な考えを持つ人である😑😑
対して私は 「プレッシャー世代」 に分類される生年である (パートナーは氷河期)。
よく言われるように 「バブル崩壊 (実感は湧かないがニュースでよく言っていた)」、「地下鉄サリン事件」、「阪神大震災」、「同時多発テロ」 などを目の当たりにしてきて、「それ (そういうことが起こること) が普通」 と思っている。

「何も確かなものはない」 と、同世代の人が同じように思っているかどうかは知らないが、とりあえず私はそう思っている。

人のことをあてにしない。
自分の考えだって変わるのに、果たして人に 「変わるな」 と要求できるものだろうか?

だから 「結婚すれば安泰」 とは到底思えなかった。
たとえばもうお互いを想う気持ちがない (むしろいがみ合っている) のに、色々なしがらみで一緒にい続けることは不幸だろうと思った。


とりあえず自分ひとり分だけどうにかしていれば、どうにでもなるではないかと思っている。
(養う家族がいるとそうも言っていられない)

ハイロウズの曲の歌詞に、

“失敗したら残念だけど 最悪でも死ぬだけだから”

21世紀音頭

というのがあるのだけれど、これをリアルに思っている気がする。


「人生を楽しんでいる!😆😆👍」 という実感は別にないのだけれど、先日からちょいちょい記載している函館在住 73 歳の女性と今でも少し連絡を取っていて、話しているうちに 「〇〇 さん (私) っていつ死んでも後悔しないでしょ?😳」 と言われ、そうだろう、そうなのだろうと思った。

というか、多分そういう風に生きてきた。


下記の内容の記事を読んだのはいつだったか忘れたが、おそらくここ 10 年内ではあるのだろう。
(ちなみに書籍自体は読んでいない)


抜粋すると、人が 「死ぬ瞬間に後悔しがちな 5 つのこと」 は下記のとおりだ。

  • 自分に正直な人生を生きればよかった

  • 働きすぎなければよかった

  • 思い切って自分の気持ちを伝えればよかった

  • 友人と連絡を取り続ければよかった

  • 幸せをあきらめなければよかった

驚くべきは、これが 「オーストラリアでのホスピス」 の看護師が耳にしたこと、ということである。
日本ではないのだ。

オーストラリア人の気質がどんなものかはよく知らないが、日本よりは比較的自由に生きていそうなイメージがあるではないか。

なのに 「自分に正直な人生を生きればよかった」 がいちばん最初に来るのである。

これを後悔しながら亡くなった人には大変申し訳ないが、まだ病気による死が襲いかかってこない (ように見える) 私たちは、このことについて大いに考えるべきだと思った。


人生自体を死ぬ間際に後悔したら、もう本当に取り返しがつかない。

あと何年、こうしていられる?
私たちは、何歳まで生きる?

人生というのは多分に大半がギャンブルで、「親ガチャ」 なんて言われるように本人でもどうにもならない要素ばかりだ。

(天に?) 配られたカードでどう生きるか、誰も教えてくれないし、常に選択してカードを切っていかなければいけない。

たまに様子見のパスもできるけれど、時間も環境もいつまでも待ってくれはしない。パスの回数は限られている。

やはりただ 「パス」 というカードを切っているだけなのだ。


老後資金が心配になるのも、健康でいられるかどうか不安になるのも、すべては寿命が延びたからではないか?

寿命が延びてしまったから、「定年 60 歳」 では資金が足りないのだ。
70 代、80 代まで働かねばならない。
一説によると、今 5 歳の子どもは 100 歳まで生きるらしい。
それを聞いておそろしくなった。

100 年、要る?

いくら寿命が 20 年延びたからといって、「20 歳が 20 年間続く」 ようになった訳ではないのだ。
「老い」 のスピードは現在より比較的緩やかにはなるだろうが、「80 歳の後の 20 年が増える」 だけなのだ。

90 代まで働く? 体が言うことを聞かないのに、鞭打って職場に行く?
働くために生きているのか?

「服に着られる」 や 「酒に呑まれる」 という言葉はあるが、まさに 「人生に食われる」 と言ってもいいのではないだろうか。
食っているのか、食われているのか。


もちろん、そう簡単に 「死」 をコントロールできはしない。特に現在の日本の法律では無理だ。
旅行者でも安楽死が許されているというスイスですら、そのハードルはかなり高いらしいのだ。

「最悪でも死ぬだけだから」

考えとしてそれはアリだ。
が、実際問題それはかなり幸運が巡ってこないと実現されない。

山形の山寺には 「ポックリ阿弥陀 ころり往生阿弥陀如来」 というのがある。私ももちろん祈ってきたが、仏に祈るくらい、「ポックリ (コロリと) 死にたい」 需要は昔から高いのである。

怪我をして痛ければ、風邪をひいてつらければ、「治りたい」 と思うだろうし、治す努力をするだろう。
「腕がこのまま壊死してウジが湧いても OK!😁👍」 なんてことになりはしないのだ。

「生きたい」 とは明確に思っていなくても、「治りたい」、「(自分から) 病気や痛みがなくなってほしい」 の延長線上にあるものだ。
そしてそれを切り離すには相当な 「覚悟」 が必要である。
(「壊死しても OK!😁👍」 の境地にはやはり至れないだろう🥺)


そうなれば、どうせ命ある限り生きてしまうのであれば。
自分で 「(人生の) 締め切り」 を決めて、とりあえず生きてみてもいいんじゃないかと思うのだ。

「人生って 50 年で充分じゃない?」 説をパートナーと話してみたりするのだが、多分 50 歳で 「やり切ったー!😆😆」 ということは可能であろう。
(自分の人生を生き切ることでの) エリートなら、40 歳でもゴールできるかもしれない。

今でこそ 「自分軸」 等言われるようになってきたが、「やりたいこと」 が 「自分の大事な人が悲しむこと」 と重ならないなら、何だってやっていいと思うのだ。

幸い私は独り身なので、「自分の大事な人が悲しむ」 状況の分母が少ないし、これからの人生が長く続いてしまったとしても、生き延びるだけの算段はないじゃない。

でも、いつだって必要なのは

  • 自分がやりたいことをやる勇気

  • 過去の自分の選択を受け入れる未来の自分の覚悟

  • ダメだったら諦める、というある種の敗北の容認

なのじゃないかな、と思う。


そして突然の報告だが私はしまなみ海道を自分の自転車で走破した。
みかん愛が詰まった松山の路面電車を目にした。

悲しいことに、気に入っていたストールを落とした。
きちんと括りつけておかなかった私が悪い。
しかも、暑かったからそもそも持っていく必要がなかったため、なおさら悔やまれる。


つい最近、「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」 で有名になった、ホセ・ムヒカ氏の奥さんの言葉を目にした。


「この世界になにかを置いていく」 という表現が強く印象に残った。

たまたま、これを読んだ前日に確か東室蘭の駅周辺を歩きながら野草 (と勝手に思っている) がボーボーに咲き乱れているのを目にしながら、「美しいなぁ」 と思ってその間を通っていた。

もしかしたら、あの野草も、誰かが種を置いていったのかもしれない。

「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」 という言葉があるが、「残す」 には少しおこがましいようなニュアンスが出る。

「置いていく」
使うか使わないか分らないけれど、置いていく。


また全然話が違うが、今月栗駒山にも登った。
唯一お手洗いのある道が通行禁止になっていたため、8 時間? ほどお手洗いに行けないことになった。
途中のキャンプ場でお手洗いを見つけて入ったのだが、紙がなかった。

しまったーホテルに置いてきてしまったー!
仕方なくホテルまで我慢するか……

と思う間もなく、誰かが 「置いていった」 ポケット ティッシュが目に入ったのでありがたく使わせてもらった。

このルシアさんの 「置いていく」 記事を読んで比較的すぐの出来事だったので、なんてありがたいんだ! 「置いていって」 くれた人がいたんだ!
と、月並みな言い方をすれば感動した。


だから私もストールは 「なくした」 や 「落とした」 のではなく、「置いていった」 と思うことにした。
リネンかコットンか忘れたが、今の時期に使いやすく、柄も白と黒のヘリンボーンなので使いやすいと思う。

イギリスで買ったような気がしていたが、違うかもしれない。
気に入った人が見かけたら、拾って洗って使ってほしい。

もしくは怪我した人の止血に使ってもいい。


「落とした」、「なくした」 という 「ネガティブな感情」 は、見方を変えればポジティブに変わる。

いつも大事なのは 「ポジティブにとらえる」 こと。
そうすると大体のことは好転していく。

「ポジティブにとらえられない」 ほど負のエネルギーが強いときは、それから 「離れる」 勇気を持つこと。

負のエネルギーから離れる選択肢は、いつだって間違っていないと思うのだ。


なんだか中途半端だけれど時間が来たのでもう行かなければ。


いいなと思ったら応援しよう!

EarlyBird
いただきましたサポート費は、面白い素材の購入費に充てさせていただければと思います。 ご支援誠にありがとうございます (^^)

この記事が参加している募集