邯鄲な日記 20220506 続編について
「面白くなくていいんだ服は!」
……など、名言てんこ盛りだった「ハッピーマニア」の続編、「後ハッピーマニア」が発売されたのはかなり前のことになる。
私は続編嫌いで、特に爆発的ヒットの続編には食指が動かない。「この作者、過去にすがるようになっちゃったんだ」と思ってしまうからだ。新しいものを作っても、ヒット作以上に売れるのはかなり難しいだろうから、怖いのは分かるけど。
ちなみに亜種として、ストーリー漫画描きが、自分の日常エッセイ漫画を描きはじめてしまうのも苦手。特に結婚・出産後の女性作家がそれをしがち。小説家がエッセイばかり書くようになるのもやや苦手。
私自身、そのヒット作があったからその作者を知ることができたわけで、作者に最初から惚れていた訳ではない。だから、新しい作品がつまらなければきっと離れてしまうだろう。
そういう意味では続編を読ませてもらう方がファン心理にはフィットするはずなのに、忌避感があるのは、一旦終わった、読んだ物語は、作家の手を離れて、「私の作品」になっているからなのかもしれない。
「ハッピーマニア」は、恋愛依存症のシゲカヨこと重田カヨコが、本当に好きな人、本当の幸せを求めて男遍歴を重ねまくるハイテンションなコメディ漫画だ。途中泥沼展開?極貧生活?も多々あれど、物語序盤からカヨコに関わってくる、地味で堅実な東大生タカハシとの結婚を決めるところで幕を閉じる。
シゲカヨは倫理観のかけらもなく、常識も通じない女なので、平穏な結婚生活を送っているはずがないのは想像に難くない。だからこそ、結婚や出産を機に疎遠になった知人みたいに、「あの人今どうしてんだろうね」「いやー私も知らないけど、絶対タカハシくん苦労してるよねー」で十分だと思っていた。
作者が「実はあの二人、今はこうなってるんです」って話し始めたら、「どうせまたカヨコは理不尽な理由で家出したり、タカハシに隠れて浮気してるんだろうなー」と思いを馳せたことは嘘になってしまう。それが「当たっていた」のだとしても、想像を大事にしていたかったというか。
しかし、「後ハッピーマニア」に触れて、このご時世、作家が続編を書くのは、作家が書きたいと思うこと以上に、「確実に売れる作品を作りたい」という出版社側の意図も絡んでいるのではないかと思い始めた。それなら続編が生まれるのも仕方がないことなのかもしれない。しかも、私はこと漫画についてこう思うのであって、小説の続編には忌避どころか作品によっては期待する節すらある。一貫していないなあ。
「後ハッピーマニア」のレビューを読んでいると、「ハッピーマニア掲載時にはシゲカヨに共感できたけれど、自分も年を取って、恋愛以外の自己実現の方法を見付けられたので、未だに恋愛が主軸にあるシゲカヨに冷めてしまった」という意見が散見された。加齢って侘しいなあ。あるいは、45までふわふわ生きていたシゲカヨと、世間の荒波に揉まれて逞しく成長した読者との間の溝が広がったということなのかもしれない。
また、シゲカヨの狂った行動原理が受け入れられないというような感想もあり、時代が変われば受け入れられるものの形も変わるのだというようなことを思った。
安野先生には、ぜひ途中のままになっている「働きマン」を完結させてもらいたいのだけれど、主人公の名前の元となった松方弘樹は亡くなってしまったし、働きマンのような、身を粉にして働くという価値観は現代では受け入れられにくくなっているだろうから、もう完全にお蔵入りなのだろうなと思うと残念だ。
もっとも、私が期待したのは、漫画を通じた強力な救済だった。まだ働きマン的働き方が一般に是であるとされていた時に、私を含め日本にいる多くの働きマン達に、働く意味や新しい働き方を提示してくれることを期待していたのだった。
今もし安野先生が、時代に即した続回を描いてくれたとしても、大人になってから母親に幼少期のことを謝られるような気持ちになるだけなんじゃないだろうか。