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溶ける

 9月。久しぶりに降り立った新宿南口は一変していた。ルミネに入っていた好きなブランドは跡形もなかった。ずっとしていた工事が終わって、高島屋側の視界はぐわっと開けていた。先輩は昨日まで大阪の仕事で、今品川に着いたとガラケーにメールが来ていた。

 目指す先は出来たばかりのドーナツ店だった。ランチに行った割烹料理屋のテレビで取り上げられていた。どうせ暇だし、東京に行くことなんて滅多にない。絶対に食べてみたかった。想像通り店の前は長蛇の列だった。

 私には本があるから、待つのは得意だ。とはいえ日差しには辟易した。後ろのカップル連れが「帽子を持ってこれば良かった」と言うのに心の中で同意する。少し前に並んでいる、白いパラソルを差している女性が眩しい。今日ホテルに入ったら、首筋にたっぷりローションを塗らなければ。まだ私は行列が六回折れた端に立っている。

 先輩が来た。事前に調べてあったのだろう。サングラスに目深な帽子を被っている。先輩はマーケティングや店舗の売り上げ改善が専門なので、このドーナツ店が行列を敢えて作らせることのマーケティング効果について私に話して聞かせる。

 店員さんがトレイにいっぱい出来立てドーナツを持ってやって来た。試食用に一人一つ、試食で配っているのだという。大盤振る舞いだ。

 行列は残り半分。先輩はまた分析のネタが出来たと目が輝いていた。ドーナツは自分の熱さと暑さで甘い液体みたいだ。

 解放感も手伝って、私たちはダズンを割り勘で買い、所沢に向かった。残ったら明日の朝食にすればいい。特徴的なこの箱を持つ人は東京ですらまだ珍しいようで、電車では度々視線を感じた。

 私たちの目当てはオフィスオーガスタの夏フェスだった。私はビール、お酒の飲めない先輩はジンジャーエール。焼きウインナーだのから揚げだのを交互に買いに行った。移動と西武ドームの蒸し暑さのせいでくたびれ果てたドーナツと一緒に喉に流し込んだ。物凄い甘さと塩辛さが交互に来た。

 その日のトリは、その年事務所の期待の新人として売り出されることになっていた秦基博だった。彼の不思議な、二種類の声を同時に出しているような声が、夕暮れ過ぎ、太陽が絞り出したその日最後の光とともにドーム内に響いた。

 ドーナツがどろりと涙をたらした。

 先輩とは部署が違うのに、スガシカオが好きという一点だけの繋がりでこんなところまで来てしまったけれど、思い切って来て良かったと思った。

 西武ドームは本当に暑かった。

 この後、この先輩とは色々なライブに一緒に行った。仕事の研鑽に繋がらない社員の交流を嫌がる社風だったので、いつも秘密の逢瀬のような楽しみがあった。職場では見せない、先輩の弾けた笑顔は私しか知らない。

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紅茶と蜂蜜
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