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上田敏 海潮音

 「違国物語」で紹介されていた詩が、noteで見た記事にも紹介されていて、その詩は「花子とアン」のモデル、村岡花子も訳したものであったということであった。ロバート・ブラウニングの詩である。

春の朝(あした)
時は春、
日は朝(あした)、
朝(あした)は七時、
片岡(かたをか)に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這(は)ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。

 原文はこれ。

Pippa's Song  
The year's at the spring
And day's at the morn;
Morning's at seven; 
The hill‐side's dew‐pearled;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;
God's in his heaven ― 
All's right with the world! 

 村岡花子は、最後の二文を「神は天にあり 世はすべてよし」と訳している。気になって、表題の訳詩集を読んだのだけれど、不思議な気持ちになって頭に言葉が入ってこなかった。

 上田敏の言葉は確かに格調高いし、外国の詩が七・五調に訳されていて日本人が読むのに心地よいリズムになっている。この訳そのものが一種の芸術になっているというのも納得だ。しかし、上田が、元の作者が詩を読んだ背景や風景を体得していたかというとおそらくそうではなく、西洋の詩情を日本風に変えたもの、もっと乱暴に言うと、キリスト教的世界観を仏教又は神道風に変えたようなものに映る。これは七・五調に変換するためでもあっただろうし、キリスト教的世界観を表す言葉が日本にはまだなかったからかもしれない。

 加えて、私が読むのに困難を感じたのは、この言葉が文語調であるからだ。私はこの詩を、原文を上田が訳したというフィルターと、上田が過ごした時代と現代の差というフィルターの二つを通して読まなければならないので、詩の良さや意味をうまく掴むことができなかった。詩というものは、その意味だけにあらず、リズムや音を味わうものなのかもしれないけれど、私は文章を読むときと同じく、意味偏重の読み方をしてしまうので、読むのが結構苦痛だった。もっとすらすら読めるくらいの教養があると良かったのだけれど。原文で読んだ方がまだいいのかもなと思った。とはいえ、英語以外はちょっと無理だし、英語を読めたとしても、詩として鑑賞する能力はあまりないような気がするけど……。

 本当は、村岡花子の訳よりも、上田敏の訳の方が好きだった、と言いたかったのだ。でもそう言えない自分がいて、結構がっかりしている。

  ちなみに、この詩も上田の訳によるものだった。初めて知った。

山のあなたの 空遠く
「幸」住むと 人のいふ
噫われひとと 尋めゆきて
涙さしぐみ かへりきぬ
山のあなたに なほ遠く
「幸」住むと 人のいふ

 ところで、最近はどうしても合わない本があったとき、最後まで読まなくても読了したことにしていい、ということにしている。本当は苦手なものでも最後まで読んで、その上で判断(読書に判断が必要かはさておき)をすべきだと思うのだけれど、合わない、読むのが苦痛なものに最後まで付き合うほど、私は時間も、体力も潤沢に持っているわけではないからだ。嫌々読むのでは、本にも失礼というものだろう。もし縁があるなら、また再び会うこともあるだろうから。

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紅茶と蜂蜜
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