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パターン化と偏見、それからstigma

 どうもえあです。糖尿病の糖尿病内科医です。
 前回のnote、たくさん読んでいただきありがとうございました。まだのひとは読んでみてね。どっちから読んでもいいですけど。

 今回は前回も語っていた、偏見について。語りきれなかった部分を、より詳しく語っていきます。

 前回は「偏見をやめよう!」くらいの話でしたが、今回は「なぜ偏見が生まれるのか?」「なぜ偏見はなくならないのか?」「偏見を払拭するために私たちがすべきことはなにか?」みたいな、話をしていきます。というわけで、

 今回のテーマは  『stigma(スティグマ)』

 『保健医療に関する社会的スティグマとは、ある特定の特徴をもつ個人や集団を、ある特定の病気 と誤って関連付けることを指します。 感染症流行時には、特定の人々が疾患と直感的に結びつけられることによって、レッテルを張られ、固定観念を持たれ、差別を受け、阻害され、その社会的地位が損なわれることになります。』
 上記は、COVID-19に対するstigmaにつき、WHOより出された「COVID-19 に関する社会的スティグマの防止と対応のガイド」から引用させていただきました。
https://extranet.who.int/kobe_centre/sites/default/files/pdf/20200224_JA_Stigma_IFRC_UNICEF_WHO.pdf

 皆さんも身に覚えがあるのではないでしょうか。
 コロナにかかるのは好き勝手やって、感染対策をしていなかったからに違いない。

 未だそう思っている方もいるかもしれないし、実際、好き勝手やって感染対策をしていなければ、コロナに罹りやすくはなります。
 でもそんな人ばかりじゃないし、そうやっててもかからない人もいるし、誰だってかかりたくてかかるわけじゃない。
 それを勝手に勝手な理由をつけて、ひとまとめに叩くのは浅はかではないでしょうか。

 ……そもそもたたかうべき相手は「コロナウイルス」でしょう?


 『stigma』は糖尿病においては払拭を叫ばれて久しいことばです。
 糖尿病に対するstigmaとは「糖尿病はだらしない」「生活習慣が悪い」「不健康」などの「偏見」により患者さん自身に刻まれる「烙印」「社会的地位の損失」を指します。
 普通に生きているはずなのに笑いものにされてバカにされるのも決め付けでどうこう言われるのも、保険料があがるのも理不尽だしムカつきます。

   stigmaの元になるのは偏見です。私の認識としては「偏見を受けて傷つく人が受ける傷をstigmaと呼ぶ」って感じで、思ってるだけで表に出さず、誰も傷つけなければそれはただの偏見です。
 まあ、偏見なんて無意識に言動に漏れるものだし、あらゆるstigmaをなくすためにはやっぱり、この偏見を潰すしかない。
 これがなかなかどうして、難しいのです。


 皆さんは偏見をお持ちですか?


 私は、「全ての人間は偏見を持っている」ものだと思ってます。もちろん私も含めて。
 だから私の答えは「はい」です。

 偏見を偏見と自覚するのは難しい。大抵の偏見は当たり前みたいに、あなたの世界に居座っているものです。
 そもそも、それを偏見と自覚できているのなら、善意に基づけば、簡単に捨てられるでしょう?

 でもね、例えば糖尿病に対する偏見は多くの人が持っているうえ、根強い。さらに言えば、多くの人はそれが偏見ということにすら気付いていないのです。

 昔話をします。
 私が中学時代の保健体育の教科書には
 「糖尿病は生活習慣病、食べすぎや運動不足でなる病気です。糖尿病にならないように、だらしない生活をやめましょう」
 こういう言葉が当たり前のように書いてありました。授業でもそう言われました。型なんて関係なく。(この辺はその他の糖尿病→2型糖尿病、に対する風当たりを強くした原因にもなるでしょう)
  当時の私は反発しました。「私は1型だから違う!」って。
 その発言はせせら笑いと共に無視されて、とても惨めな覚えをしたのを今も覚えていますし、あの保健教師の顔は忘れられません。一生許さん。

 テレビでは肥満で嘘ばかりつくお笑い芸人が糖尿病患者の代表みたいに嘲笑されていたり、糖尿病予防に!みたいなCMでぷにぷにのお腹が強調されてたり。

 こんなふうに一般社会においては、「糖尿病は肥満や生活習慣のせい」が「当たり前」のように紐付けされています。
 不摂生→発症→合併症になりやすい→健康を崩したり寿命が短い、という思い込みは、保険料の釣り上げに影響してるでしょう。

 小児期発症の糖尿病は小児慢性特定疾患として、医療費の全額補助が受けられます。でもそれは成人するまで。
 4歳で1型糖尿病を発症した私は、いわゆる医療保険に入ることができませんでした。今後も、いかなる保険に入るにしても制限がかかったり、より高い保険料を求められるでしょう。
 ろくな補助もなければ、通常の医療保険にも入れない。
 ……どころか、 海外旅行保険の金額上がるのはさすがにおかしいと思いませんか?
 糖尿病があるから盗難や事故にあいやすい?ちゃんと血糖コントロールできてれば、そんなこと全くないでしょう。

 こんな感じで私たちは、人一倍金銭的にも苦しめられています。

 こんな事案が、世の中にはたくさんあります。
 まあ世の中の多くの人はこんなの、興味が無いか関係がないでしょうし。社会にとっても「当たり前」なんでしょうね。


 「だらしない」「生活習慣が悪い」「不健康」

 実際、偏見が当てはまるであろう糖尿病患者さんもいます。

 肥満で、食事や運動に気を遣うのが苦手。傍からみたらだらしない、病気と言われても生活を変えようとはしない、まあそりゃ糖尿病にもなるでしょ、って思われる人たち。
 実を言うと、私自身はあんまりお見かけしません。(もしかしたらそれは、傍から見てる人には「そう」見えていても、彼らが私にはがんばっているところをみせてくれているから、なのかもしれないけれど)

 前提なんですけど、仮に当てはまっていたところで、レッテル貼られて心の中まで決めつけられてとやかく言われたら嫌ですよ。
 「あんた漫画ばっか読んで勉強しないから成績落ちたんでしょう!」
 なんて、仮に正論だとしても、勝手に決めつけで言われたらムッとしません?

 そして偏見が「どう考えてもあてはまらない」糖尿病患者さんもいます。

 強い糖尿病家系だからすごく気を付けていてスリムなのに、年齢とともに血糖があがってしまったひと。
 糖尿病って診断を受けて、必死に血のにじむような努力をしているのに薬がやめられないひと。
 逆に、あからさまにひどい生活をしている超肥満なのに、健診データは正常のひと。

 この「偏見から外れる人」はわかりやすく偏見の被害者です。一部の人に対する偏見を、当てはまらない自分に勝手に押し付けられて傷付けられる。
 3例目だって、「お前糖尿病じゃねーのかよw」みたいなイジりを受けて嫌な気持ちになっているかもしれない。糖尿病患者さんから陰性感情を向けられる対象になってしまうこともある。
 「なんでお前はそんなんなのに糖尿病じゃないんだ、俺はこんなに頑張ってるのに」

 これもずいぶん、理不尽ですよね。

 ただまあ、あからさまな理不尽なら理不尽だ!って怒り狂って、言うやつが悪い!って叫べるし、理不尽を責められるんですよ。

 特にしんどい思いをするのは「偏見に当てはまってないとは言いきれないひと」や「自分自身が偏見を持ち続けてきた人」だと思います。

 糖尿病を指摘されたとき、「毎日チョコレートを食べていたせいかな」と思い当たる人は、自分の習慣が悪いから糖尿病になったのだ、って思い込みがちです。
 でもチョコレートおいしいし、毎日食べてるけど糖尿病じゃないひとなんてたくさんいるでしょう?
 本当に「毎日チョコレートを食べている」のが「だらしない」から「糖尿病になる」ならチョコレートなんて売っちゃダメでしょう。

 こんなふうに、普通の生活をしていたはずなのに、糖尿病という診断が下された瞬間、「だらしない生活をしている」というレッテルを自分に貼って、よくないところを探し始めるひとはたくさんいます。
 個人的にはチョコレートなんかより、ジュースはよっぽど、(血糖値への影響を考えれば)あんな気軽に売るもんじゃないと思ってるけど、売ってる。
 売ってるのは飲む人がいるからで、飲んでても大抵の人は糖尿病になんてならんのです。

 このように無意識に抱えた偏見は、他人だけでなく自分を強く傷つけます。
 その偏見が強ければ強いほど、他人も、自分も傷つけます。

 他人に「糖尿病はだらしない!」と言ったり思い続けて来た人は当然、その認識を強く持っています。
 それを発信することは当然、他者を傷つけますし、そういう自分が「だらしなくないはずなのに」「気を付けていたのに」「糖尿病になってしまった」ら?

 まずは認めない、診断を拒否する、通院しない人がいます。
 自分ひとりで考えた、悪かったかもしれないところを、端からひとつひとつ重箱の隅をつつくように探し出して、なんとかしようとするひとも。
 自分流のやり方で治せる気になって、ないし他人の言う「治し方」を聞いて、おかしなことをやる人もお見かけします。

 糖尿病診療のキモは、できるだけ早く診断を受け、それを受け入れ、正しい評価と介入を受けることと、無理せず上手にやっていくことです。
 でも端から逆のことやってますよねこれ。
 そして、何かが起きて困ってはじめて医者のところにきたり、何が起きても通院を拒否して、そのまま死んでしまったり。
 大抵の場合ですが、このパターンの方は、もう元の状態には戻れなくなってからいらっしゃることが多いです。

 後悔なんて後からしかできないのです。進んだ動脈硬化は元に戻らないのに。
 勿体ないなあ、と思います。

 こんな風にstigmaによりマッチポンプ的に「自分を責める」↔「治療がうまくいかない」、に陥るのを、私は「セルフスティグマ」と呼んでます。
 糖尿病に対する社会からのマイナスイメージが強いこともあり、実際には病型に関わらず、ほとんどの糖尿病患者さんはこのセルフスティグマに悩まされていることと思います。

 そして困ったことに、「自分自身」からは逃げられないのです。

 今まで自分が糖尿病患者さんに対して思ってきた気持ちが、言葉が、24時間365日、いつだって自分に突き刺さる。
 これまで通りの生活を続けているだけで、「そんなおやつばかり食べてるから糖尿病になるんだ」「今日も全く歩かないんだな」みたいなことを、思ってしまう。
 こんな風に生きていくのはつらすぎます。つらすぎて治療のやる気も無くしてしまうかもしれない。ストレスは暴食の理由にもなります。
 糖尿病は困るまで困らないくせに、一生付き合っていかないとならない病気であって、治療や生活があまりにもつらくくるしいのはよくないです。

 なりたくて病気になる人なんていないんだから、誰も彼も、あれもこれも自分のせいだなんて思わなくていいと思うんだけどなあ。

 ことセルフスティグマの形成においては、医療者にも大きな責任があると思います。

  糖尿病患者さんはたくさんいますから、さまざまな診療科に通院します。そこで患者さんが持参した検診結果を見て、「糖尿病予備軍ですね、だらしないからですよちゃんとしてください。じゃないと糖尿病専門の先生に紹介しますよ。薬始めますよ」
「糖尿病の数字が悪いですね、だらしないからじゃないですか?」
 たまに、本当にこういうこと言ってる医療者を見かけます。やめてください。理由は上記の通りです。


 さて、こんなにいいことがなさそうな偏見、なぜ生まれるんでしょうか。

 糖尿病に対し強い偏見を持つ人に、「どうしてそう思うんですか?」と聞いてみると、「周りにこんな患者がいて、」と語り始めることが結構あります。
 こんなとんでもない人が糖尿病になったからみんなそうなんだと思ってる。って。

 たしかに、それっぽい。
 でもそもそも、そんな患者こそ糖尿病らしい!と思うのにはもっと根深い背景があります。

 個人の偏見を作るは経験だったり思い込みだったり見聞きした話だったり、それぞれの個人的な理由があります。
 ただ糖尿病や精神疾患、生活保護、COVID-19のように広く「社会全体から偏見を受ける」ものに関しては、より深く広い、偏見の根幹があると思うんです。

 糖尿病であれば例えば教育(保健体育の授業等)、例えば広報(テレビCMやバラエティ番組等)、例えば認識の歪み(「『生活習慣』病」という言葉等)。
 それらは、社会全体に偏見を植え付ける種なのです。

 ただ、この種には意味があります。

 だって知っておいた方がいいじゃないですか。
 過食や運動不足、肥満により糖尿病が引き起こされうるから、健康的な生活を心がけましょう!ってこと。
 これは教育、啓蒙されて然るべき内容なんです。
 「だらしない生活をしている人は糖尿病になりやすい」というパターン化は、多くの人にとって、糖尿病の発症を予防するために有用です。
 それを知ってるからこそ日頃から食事、運動、体重に気をつけられる人、健診を受けてくれる人。実際にたくさんいますし。

 重ねて言うと、医学生向けの教科書には、1型のところに若くて痩せたアイコン、2型のところに肥満中年の「いかにもだらしなさそうな」アイコンが描かれていることが多いです。
 これも学習のためのパターン化としては有用です。
 背景はどうあれ、2型糖尿病の多くはインスリンの分泌が保たれたまま、生活習慣の影響もあって発症するものであるし、1型糖尿病はもとの生活習慣とは関係なく突然発症するうえ、糖尿病性ケトアシドーシス等で体調を崩し、多くは激ヤセします。
 こういった発症様式や特徴を覚えるために、パターン化は有用なのです。

  予防や学習の観点においたとき想定されるべき発症形式と言える、「だらしないから糖尿病になるひと」「肥満の中年で糖尿病になるひと」
 言ってしまえばこれはパターン化のための極論です。
 でもこれが一般認識として社会に根付いてしまっている。誰も「全員がそう」なんて、最初から言っているわけではないのに。

 このパターンを全例そうだと思い込んでしまう「偏見」こそ問題なのですが、現状、素直に教育や広報を受け入れていればそう思ってしまうでしょう。
 外れるひとが居ることをあえて伝えないのは、外れるひとが居ることが知られてないから、ないし効率的に伝えたいから、なんだと思います。
 たぶん、教育や発信を行うひとの多くは糖尿病そんなに興味がありません。わからせればいいだけなら、極論以外を知らせる必要もないのです。
 (とはいえクラスに1型糖尿病の生徒がいることを知りえる癖にあの授業をした保健体育教師はまじで教師としてクソだと思う。いじめ幇助じゃん。)

 ステレオタイプをそのまま、書いてある通りに、最大の効果が出せるように、その偏見を強調して伝える。
 そうすれば、受け手は「糖尿病にならないようにがんばろう」「糖尿病はこう考えればいいのか、わかりやすい」と思う。効果的で効率的ですよね。

 パターン化を利用するなら、あくまでそれはパターン化であるとみんなが理解できればいいんですけど。そこまで考慮して伝えると理解ができなくなってしまう人も増えるでしょうし。なかなか難しい問題だなあと思います。
 日本人は足並み揃えるのが大好きですから、いちばん低いレベルに合わせてわかりやすく認識を植え付けようとするのかもしれません。
 それも、社会全般にこういう認識が広まってしまう原因でしょうね。
 まあ、これも偏見ですけど。


 そしてなお悪いことに。人間というのは醜い生き物です。

 だいたいの人は、できれば人より優位に立ちたい、可能な限り人を下に見たいと思っています。
 だから「だらしないと糖尿病になりやすい」という認識を「糖尿病になるのはだらしないからだ」と脳内で組み替えて、糖尿病のひと全員を「だらしない」と決めつけて見下そうとします。

 このふたつ、冷静に考えてみれば、全然意味が違いますよね。
 でも見下すのは気持ちがいいからその偏見を修正しようとは思わない、んじゃないかなあ。
 嫌な感じですね。


 さて、そろそろタイトルの意味がわかってきたのではないでしょうか?
 以下は私の個人的な解釈ですが、

 ① 糖尿病を予防 / 理解するためのパターン化:「肥満や生活習慣の問題がある→糖尿病になりやすい」という教育や広報を受ける
 ② このパターンから「糖尿病 = 全員が肥満 / 生活習慣に問題がある」という「偏見」「結びつけ」が生まれる
 ③ 個人の違いや気持ちを鑑みず、糖尿病という言葉とそれに対する偏見に個人を関連付け、傷つけ、stigmaを与える

 こんな感じじゃないでしょうか。

 たぶん、わざわざこの記事読む人のほとんどは、そもそも糖尿病に対してひどい偏見はもってない、と思うんです。
 ありがとう。でも、勘違いしないでください。

 それはあなたに偏見がないということではありません。

 例えば「精神疾患がある人は危険だ」とか、「生活保護患者にはろくなひとがいない」とかそういうこと、何か一つでも思ってません?
 それ、偏見なんですよ。
 そうじゃないこともあるのに、全員そうだと思い込んでしまう。パターン化に縛られてしまう。
 ひととはそういう生き物であって、そもそも、

  偏見を持たないのは危険です。

 だって、世の中の全てをみる、知ることはできない。
 その前提を考えれば、学ぶ、予防するだけでなく、生き残るために一般化や極論は必要だと思います。

 例えば。
 銃をもったコワモテのサングラスのおじさんがいたら例外なく、わざわざ近付くのはやめておこうって思いませんか?
 もしかしたら優しいかもしれない、銃を撃てばそこから花束が出るドッキリかもしれない。

 んな事言ったって、ほんとに近付いて、悪い人だったとして、撃たれたら死んじゃうんですよ。
 そしてたまたまその人が違ったとしても、また別の「そういう人」を見かけたら、やっぱり不用意に近づくべきではありません。

 身を守って生き残るために、パターン化、思い込みは有用だし必要なのです。

 それが仮に偏見の温床になるとしても。

 だから、偏見を持つななんて言いません。
 でも誰しも偏見を、もっているであろうことを知っておいてほしいのです。自分に偏見があるという事実を受け入れてほしいのです。

 「自分の世界が絶対の正義、自分の認識が間違っているわけがない。偏見なんてない」と思い込んでいる人は、「それは偏見だよ」と言われても絶対に受け入れてくれません。
 そしてその偏見をそのまま、容易に押し付け、stigmaを産みます。他人も、もしかしたら自分も傷付けます。

 傷付けてしまうこと自体は、私自身は「仕方の無いこと」だと思っています。悲しいけど。

 でも「それは偏見だよ」を受け入れられるこころ、「自分が偏見をもっているかもしれない」と疑うこころ。
 それがあれば「違う!」って言葉を受け止めて偏見を修正して、ひとや自分を傷付けることをやめられるのではないでしょうか。

 傷付く人は少ない方がいいじゃないですか。
 自分を守るためにも、自分を疑うことは大事です。 

 なんて、私は思うのですよ。


 さてさて、長くなりましたし、こんなところで終わりにしておきましょうか。
 ざっと一文にまとめると、「有用なパターン化や必要な偏見はあるけど、偏見を偏見と認識することができないと、他人や自分を容易に傷付けてしまうよ」
といったところですかね。

 疑心暗鬼もよくないですが、自分のことあんまり、信じすぎるのも考えものですよ。
 偏見なんてあって然るべきものだけど、それを偏見だと受け入れるのはとても難しい。
 もしかしたら知らないうちにその偏見を他人に振るってるかもしれない。
 それを教えてくれる他人の存在は貴重だし、自覚できるあなたは素晴らしい。

 自覚した上で改めて考えればいいんです。
 偏見を修正したとしても、やっぱり食事に気をつけるのは大事だし、運動はしたほうがいいんだから。


 ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

 こんな感じで、今後も思いの丈や私が持っているものを定期的にnoteに書き留めていこうと思います。
 次回以降は最新記事のみ無料とさせていただくつもりですのでご承知おきください。

 よろしければ今後ともごゆるりとお付き合いくださいな。
 どうも、えあでした。

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