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その感動はホンモノか? スピノザ的「体験と疑似体験」 (と少しだけ動物園のお話)

パリオリンピックが終わりました。

メダルラッシュだったのですかね

スポーツって、見てるだけで達成感や充実感がありますよね。
自分は一歩も動いていないのに。

がんばった選手が充実感や満足感を感じているのならわかります。
でも、ただ見ている我々もなんだか成し遂げた感じになり、胸が熱くなってしまいます。

実際には、何も成し遂げていないので、そこに胸が熱くなる理由は存在しません。

オリンピックに続いてはじまった夏の高校野球もそうです。
毎日きつい練習を乗り越えてきた高校球児たちは、全国大会である甲子園の地で35℃を越える気温の中、全力で走り回っていますから、試合の結果に歓喜や悔しさもあるでしょうが、全く無関係な大人がクーラーの効いた部屋で地元でも母校でもない高校の試合をただ見いているだけでも、なんだか感動してしまいます。

全力を出し切った人を見ているだけで全力を出し切った気分になれます


お正月の箱根駅伝なんて、こたつでお餅を食べながら涙の繰り上げスタート!とか、攣った足をかばいながらなんとかゴール!シード権確保!とかを見ているだけで、ものすごくやり遂げた感じになってしまうので、確実に太るわけです。感情移入恐るべしです。

涙の戸塚中継所。なぜかテレビで見ているだけの人も泣く。

8月の最後になると、毎年恒例のあの番組もやってきます。24時間走るだけの意味不明チャリティーマラソンです。

なぜ意味不明なのに感動してしまうのか?それは「人は、人が頑張っている姿を見ると、何だか知らんけど感情移入するようにできてしまっている」からではないでしょうか。人の性(さが)です。

「感動をありがとう」「勇気をもらいました」

この、謎の感情移入の正体は、いったい何なんでしょうか?

スピノザ哲学における感情移入については、Gutti グッチさんが詳しい記事を書いておられますので以下のリンクを参照してください。

はい。参照したものとして話を進めます。

ざっくりいうと、スピノザは「人間は自分に似ているものがあると、それに対して何の感情ももたないのに、それがある感情に動かされていることを想像するだけで、自動的に感情を共有してしまう」という性質を持っている、ということを言っています。有限な人間は、無限な神すなわち自然の中で、必死に自己を保存し自己実現をするために、自己の感覚を拡張させるようにできているのです。

そしてその性質は、人間の「自己実現・自己保存しようとする作用」(コナトゥス)の発現によるもの、とスピノザは見ています。

だからこそ、高校野球を見る時に、より自分に近しいもの、地元校や母校であれば「よりさらに」感動するし、元高校球児ならさらにそうでしょう。

他国選手より自国選手、よく知らない競技よりもなじみのある競技の方が感動しやすい、という予想も成り立ちます。

「リュージュを見て感動しました」とか日本ではあまり聞かない


これがまさに「自己感覚を拡張させることによる、動いてもないのにスポーツ見てるだけで感動しちゃう案件」です。


さて、ここからが本題です。

この現象を、私の本業である動物園に当てはめてみましょう。

スポーツの「体験と疑似体験」「感動とつられ感動」の考え方は、野生動物を野生で見るか、動物園で見るか、画面越しに見るか、という違いにも対応可能です。

この体験は本物なのか?

自然の生息環境で野生動物を見る体験を「真の体験」とすると、動物園で野生動物を見る体験は「疑似体験」に過ぎません。野鳥観察を嗜む人は、動物園で見た鳥を絶対にライフリスト(生涯に見た鳥類種のリスト)に入れないことを考えると理解できると思います。

この考え方で動物園体験を考えていくと、動物園の展示は「どこまで本物っぽいフェイクを作れるか」という点に向かうしかなくなります。

しかし、一方で「動物園で野生動物を見る」という真の体験をしてもらう、と考えることも可能です。

じつはコナトゥスの上で生きる人間の感覚としては、動物園の動物の方が「より近しい」体験である可能性がありますので、生息地で動物を見るより、もっと感動する可能性すらあります。

さらにこの場合、動物の見せ方は「より生息環境や生息密度や群れ構成を再現した方が良い」というものとは違うベクトルも生まれ得ます。つまり、野生下では見られない、動物園だからこそできる見せ方に特化できるのです。

そして、その「展示」に、「展示を見て感動している人」も対提示することが効果的であることも法則として導き出されます。レポーター役の飼育員をキャストとして入れ込むのです。

人間は楽しんでいる人を見るとつられて楽しくなり、驚いている人を見るとつられて驚ようにできているのですから、これを利用しない手はありません。(ただし本気で楽しみ、驚いていることが条件です。これがない人は動物園職員には不向きです)

そしてそんな展示の(3次的な)疑似体験として「動物園の動物展示の動画を見る」というものも派生してきて、ベットで寝そべりながらでも感動体験ができます。

スピノザ的には、どの体験も連続した自己拡張のための「コナトゥス」の発現なのです。貴賤や優劣はありません。広げられるだけ広げればいいのです。広げていくことで、感情を共有できなくなるポイントが見えてくるはずです。

「動物園の動物はリアルではない」などと卑屈になる必要はないのです。心を動かされるかどうかは、それとは無関係な作用で受け手側の中に成立します。

感情移入とは自己意識の拡張であると考えた場合、ニセモノの体験や疑似体験はどこにもありません。あるのは、その体験が自己感覚に近しいかどうか、という距離感です。この距離感の支配者が展示の成否を決めます。

疑似体験と思しきものを、いかに醒めずに、リアルと同じ熱量をもって、実際の本物の体験として感情共有させられるかどうか、が、感動ビジネスの上では重要になってくるのではないでしょうか。

これは情報の伝え方の問題であると同時に、体験を提供する側が、体験する側の視点や意識をどのように「我が事として感情を共有しやすいように」操作できるか、という問題でもあるように思います。







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