フラクトゥール文字に刻まれた未来
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佐藤スズは、神保町の古本屋の棚の隅で、一冊の古びた数学書を見つけた。タイトルは『集合論の基礎』。厚い表紙の端は擦り切れ、手に取ると独特の古本の匂いが漂う。学生生活も三年目に入り、次の研究テーマを考えていたスズは、何かインスピレーションを得られそうな気がしてその本を購入した。
部屋に戻り、ページをめくる。内容は高度だったが、どこか懐かしさを感じさせる古典的な記述に惹きつけられた。途中で何かが目に留まった。ページの隅に、細いペンで書き込まれた文字がある。それはスズにとって見慣れないものだった。
「これ、何の文字だろう?」
曲がりくねった線は、どこか装飾的でありながらも整然としている。不思議な魅力を感じつつも、スズにはまったく読めない。興味を抑えきれず、スマートフォンを取り出してGoogleレンズを起動した。
カメラをかざすと、画面に結果が表示された。
「フラクトゥール文字...ドイツ語...」
そして翻訳結果が下に続く。
「Wer sich nicht wagt, der nicht gewinnt.(挑まなければ、勝利もない)」
スズはスマートフォンを手に、その言葉を何度も読み返した。「挑まなければ、勝利もない」その言葉が、自分に向けられたように感じられたのだ。
「この文字を書いた人は誰だろう?」
本をさらにめくると、他のページにもフラクトゥール文字の書き込みが散らばっていることに気づいた。それらは、数式のメモに混じるようにして書かれ、まるで本の持ち主の考えや感情が封じ込められているようだった。
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彼女は調査を始めた。書き込みの特徴的な筆跡や内容から、戦後間もない日本で書かれた可能性が高いと考えた。特にフラクトゥール文字を用いること自体が、戦後の学問復興期にヨーロッパの書物を手がかりに学んでいた当時の学生たちの文化的背景を想起させた。スズはその痕跡に、過去の学び手たちの情熱と苦労を感じずにはいられなかった。
書き込みの一つにはこうあった。
「未来の君へ。学びを恐れるな。困難な時代でも、それを貫けば道が開ける」An dein zukünftiges Ich: Fürchte dich nicht vor dem Lernen. Selbst in schwierigen Zeiten wirst du einen Weg finden, wenn du dranbleibst.
スズはその文字を見つめながら、自分の中に湧き上がるものを感じた。大学生活では、何度も自信を失いそうになった。課題に追われ、成績に悩み、将来への不安を抱える毎日。しかし、この本の中の文字が、そんな自分を励ましてくれるように思えた。
「戦後の混乱の中で、こんなふうに自分の思いを残した人がいたなんて……」
彼女はペンを取り出し、自分のノートにそっと書き加えた。
「挑まなければ、勝利もない」
古びた本のページに刻まれたフラクトゥール文字。それは、時を越えて若き学び手に語りかける声だった。