見出し画像

すべての食べ物が敵になった話(拒食症)

こんばんは。犬飼うさぎです。

今回は私が拒食症になってから、痩せを経験して回復期過食に入るまでのレポを書いていきます。

どうぞよろしくお願いします。

(このnoteには摂食障害や他精神疾患の体験談が含まれます。気分が悪くなってしまう方はご注意ください。また、摂食障害や痩せた体型を推奨するものではございません。)


発症するまで

 私は小さいころから食いしん坊で、なんでもかんでもよく食べる子供だった。それゆえ発育がよく、成長曲線ちょっと上くらいで推移するちょっとぽっちゃりさんな子供だった。
 ものの善悪というか、自制心が働くようになる前の幼児のとき、保育園から帰った後や休日に親が仕事の時に近所に住む祖父母の家によく預けられていたのだが、祖父母は私にありとあらゆるものをたくさん食べさせた。私はもちろん出されたものを食べた。祖父母がそうする理由はただ一つで、私がおいしそうにニコニコ食べるのが面白いからだった。そう言うと聞こえは良いかもしれないが、食べさせる量、物、時間、いずれも異常だった。私はもともとアレルギー体質だったのもあって、母は食べ物に気を配っていた。しかし、祖父母はただ「面白いから」という理由だけで食べさせてはいけないものを与えることもあった。私は物の判断ができない幼児だったので、なんでも食べた。食べて夜ご飯のときにお腹がいっぱいだったり、食べ過ぎて吐いたりすることも多かった。そうすると親に怒られるようになった。ほぼ毎日、祖父母の家から帰る車の中で、もしくは家に帰ってから、何をどのくらい食べさせられたのか、どうして食べてしまったのか問い詰められることが多かった記憶がある。

 この状況を好ましく思わない親は祖父母の家に直談判しに行った。私はその時の様子を覚えている。母親、父親はどうか、食べさせてはいけないものを食べさせないでくれ、夕飯が食べられないほど食べさせないでくれ、と懇願したが祖父母は聞かなかった。
 祖父母は私を呼び寄せてこう言った。
「食べるの、好きだよね?」
私はもちろん「うん」と答えた。続けてこう言った。
「ほら。この子はなんでも食べるロボットなんだよ。私たちが面白がってれば、それでいいじゃない。ね、そうでしょ?私たちのおもちゃ。人間じゃないんだよ。だからなんでも、どれだけだって食べさせたっていいの」
私は幼いながらその言葉の残酷さに泣き始めてしまった。その言葉は未だにトラウマになっている。

 食べることが自然にできていたのはいつだろう。私は祖父母の家で感じるストレスや、親が忙しくてなかなか構ってもらえないストレスから食べ物を戸棚から盗んで食べつくすようになった。もちろんバレて、ひどく叱られるのだがやめられなかった。食べることで嫌な気持ちが薄れるような気がした。叱られるのは嫌だけど、そうすることで注意をひけるんだと思うようになった。今思えば、ストレス過食のポテンシャル(?)はこのときからあったのだろう。

 大きくなって、中学生くらいになったらそれらは落ち着いたが、高校生になって反抗期が始まると、母親の作った弁当が気持ち悪く感じるようになった。ちょうど母親と折り合いが悪かった時期で、「死んでしまえ」と言われた(のちに謝罪された)ため、私に死んでほしがっているんだ、私には価値がないと思って弁当を捨てるようになった。弁当の中身がごみ袋に入っているのを見て、母親は烈火の如く怒った。

 しばらくして高校2年になると今度はお腹がやけに空くようになった。弁当も食べられるようになったが、それに加えさらに菓子パン3つ、おやつにも菓子パンを食べるようになった。しばらくして体重が10kgほど増えていることに気づいた。このとき家のお菓子も食べつくしていたので、豚、意地汚いと怒られることも多かった。

 しばらくして自分が醜いと思うようになった。運動を始め、弁当と家のご飯以外は食べないようにした。徐々に体重は減っていった。物足りなくて、ご飯の量を減らしたり、弁当を小さいサイズに変えてもらったりした。この時点で家族は「ダイエットしてるのね」くらいに捉えていて、特段揉めることはなかった。

コロナ禍の休校期間

 高校2年の終わりごろ、コロナが流行し始めた。3年生になると学校に行けなくなった。本当は受験勉強をしなくてはいけないのに、痩せたいという気持ちが頭から離れなくなった。
 学校に行けないため、友達に会えずしゃべる相手がいなくてストレスがたまった。毎日同じ生活でしんどくなっていった。空いた時間、ずっと階段を上り下りし、筋トレをし、用意してくれたお昼ご飯をバレないように捨てるようになった。体重は太る前より減っていた。

 この時点で「痩せたね」と親から言われるようになったが、休校のストレスが拍車をかけて運動強迫と食事制限は加速していった。

私には何もない

 受験勉強が手につかなくなっていった。気分の落ち込みもひどくなっていった。ふと思い出されるのは、昔祖父母に言われた「ロボット」という言葉、母親の「死ねばいい」という言葉だった。
 私は人間扱いされないのか?死んだほうがいいのか?そう思うようになった。ストレスが蓄積していって、楽しみなのは減る体重だけになった。この時点で私の体重は痩せの領域に入っていた。もう食べるのが嫌になって、ある朝、朝ごはんを呼ぶ母親に「何も食べたくない」と言った。

 それから、私の食べられるものはほとんどなくなった。食べていいと思えるのは脂肪ゼロのギリシャヨーグルト、特にジャムなど糖分の多いものが入っていない無糖か人工甘味料のみのものだけになった。一個100kcalもないのに太ると思って怖くなった。無理やり親のご飯と同じ時間に一つずつ、親が食べ始めてから食べ終わるまでの時間と同じくらいかけてちびちびと食べた。
 食べ物以外でも、切手の糊が怖くて舐められなくなった。糖衣錠やカプセルのカロリーが気になって薬が飲めなくなった。
 運動はもっとするようになった。体重は加速度的に減っていた。一方反比例するように私の心はすり減っていった。死を真剣に考えるようになった。自分でもおかしい、普通じゃないと思いながら、でもどうしたらいいのかわからなくなった。

元に戻りたい、戻る(太る)のが怖い

 自分が異常だと思って怖くなった。同じくらい太るのが怖くなった。これだけ努力して、我慢して手に入れた痩せを、価値がわからないまま手放せないでいた。よく言われる「痩せていれば心配してもらえる」とか全く思わなかった。むしろ自分が気持ち悪かった。
 両親には胃腸がおかしいから食べられないとずっと言い続けていた。死にたいとか言えなかった。心配させたくなかった。でも、耐えきれなくなって泣きながら私、おかしい、病院に連れて行ってと言った。両親は摂食障害を見てもらえる病院を探してくれ、連れて行ってくれた。

 しかし、なぜか私は痩せていることに囚われていた。体重が少なくなるほど、骨が浮き出ているほど、自分を許せるような気がした。思えば腕を切るのと同じで、心の痛みを体の不健康さで表すことで自分を納得させていたのかもしれない。
 だから、元に戻りたいという気持ちと、太るのが怖い、健康になるのが怖いという気持ちの間で揺れ動くようになっていた。

 病院では、「そのうち揺り戻しの過食が来て、元の体重より増えると思うけどゆっくり治していきましょう」と言われ、怖くなった。絶対自分は過食しない、と言い聞かせた。
 カウンセリングでは病気の自分の気持ちと本心を打ち明けて、どうやって付き合っていったらいいか相談した。過去の話もした。休校期間が明けて、友達みんなに心配されるようになってから、心配かけさせるほうが心苦しくて、治したい思いが強くなっていたので、カウンセリングではそれを伝えて回復を目指した。

 そのうち、「少し元の食事を食べてもいいかな」と思えるようになり、普通に食べれるようになった。やっぱり食べ物は怖いけど、カロリーが怖いけど、でも治したいから、という思いで食べるようになった。親は無理やり押し付けることもなく見守ってくれた。拒食症になることで親とのわだかまりが解消されつつあった。拒食症になったことで、最終的に苦しみを声に出すことができるようになった。体重は恐れていたほど増えなかった。過食もしなかった。これなら大丈夫かも、と思うようになった。

受験のプレッシャーと過少な自己評価

 受験勉強を休校期間に全くできなかったし、私のメンタルの不調を見た親や先生は「現役での合格は無理だろう」と思っていた。それより私の体調の回復を優先させたがった。でも私は周りに遅れを取ること=死よりもみじめなこと、と考えていて、休校明けの6月から必死に勉強した。
 受験には模試が付き物だが、その偏差値が信じられなくなった。「どうせ私は本番で失敗する」とか、いい偏差値や、志望校合格判定でAが続いても「こんなのまぐれだ」とか言って、ついには模試の結果すらほとんど見なくなっていった。成績が悪い科目、分野だけ確認してひたすら勉強した。
 どうしても現役で合格しなくては親に迷惑をかける。国公立じゃないと学費が払えない。理系だからある程度のレベルを目指さないと。大学に入ってからも将来の選択肢が広くなるように今頑張らないと。そうぐるぐると考えて、胃が痛くなったり、めまいがしたりすることが増えた。
 偏差値とか、判定とか、先生からの評価が信じられないというと親は「周りのことをよく見えている人がそう言ってるんだし信じたら?成績もまぐれじゃないと思うよ。上がり続けているじゃない。」と言われたが、「そんなのたまたまうまくいっただけで、本当は私には実力がない」と言い続けた。
 痩せに固執したままではあったがこだわりが薄くなった一方で、自分への評価はありえないほどに低いままだった。

受験を終えて

 受験は、結果から言うと大成功だった。親も先生も現役合格は難しいと考えていたが、うなぎのぼりに成績を伸ばす私を見て合格間違いなしと言うようになり、結果志望校の国立からチャレンジした私立、滑り止めまですべて合格した。親も先生も「よくあの状態から立ち直った」「最後まで成績が伸び続けていてびっくりした」と口を揃えて言った。
 これが私の成功体験になって、少し自分を信じてもいいかな、と思うようになった。

 大学生になって、自己評価は周りの人から比べたらびっくりするくらい低いままで、落単したと思い込んでいたら最もいい成績が取れたこともあった。痩せはどうでもよくなっていた。

 しばらくして大学生活や下宿生活のストレスから適応障害になったが、過食も拒食も出なかった。残ったのは低い自己評価と、希死念慮だけになった。下宿先を出て一人暮らしをするようになった。親は相当心配していたが、わがままを言って押し切った。自炊したり、バイトに明け暮れたりして摂食障害であったことを忘れるくらいになっていた。相変わらず骨ばった体だったけど、それについていいとか悪いとか評価をすることがなくなった。この時点で摂食障害が治ったと、その時は思い込んでいた。

最後に

 これが私の拒食症発症まで~拒食症~回復(?)にかけての話である。また後で書くが、この後私は回復期過食に入って、そのあと嘔吐を覚えて摂食障害をずるずる引きずることになる。それは地獄であり、同時にその時の私の骨折した心の松葉杖であった。摂食障害になぜなったのか、あまりわかっていないが、そうすることでしか生きられなかったのだと思う。何が間違っていたのか、どこで間違ったのか、ずっと考えているし、摂食障害にさえならなければ、どれほどの時間、金銭、心がすり減らずに済んでいたのだろうと考えない日はない。

 ダイエットをしている人、あまり太っていないのに太っているという人を見ると、こっち側に足を踏み入れないでほしいと切実に思う。ほとんどの人は適度なところでやめられるんだろうけれど、ちょっとしたきっかけで誰でもこっち側に落っこちてしまうと思う。
 できない私が言うのもおかしいが、自分の価値を認めてあげてほしいと思う。自分の価値が分からなくなると、価値を努力から見出そうとしたり、人によっては心配されることで価値があると感じるようになったりする。この病気にさえならなければ、と思うほど私はこの病気が苦しいものだと感じているし、なかなか回復できていないので、こうなる人が減って、将来的にはいなくなってほしいと思う。同時に、今苦しんでいる人も、回復したいと思っているならよくなってほしいと本当に思う。

 食べることが小さいころから下手な私はいつになったら普通になれるのだろうか。
 次回は回復期過食、過食嘔吐について書いていこうと思う。
 気に入ってくださったなら、また、今度。



いいなと思ったら応援しよう!