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ヴェイパーウェイブのカート・コバーン・「反逆の神話」と「資本主義リアリズム」で批評されたロックアイコン:ライフマイナス第11回

かつて、翻訳者の小川公貴氏が過去に運営し、現在は閉鎖されたテキストサイト「Bad cats weekly」にて連載していた、人生の欠落感を題材としたテキスト「LIFE-(ライフマイナス」の続編です。


 ある意味では答えは明白だ。カート・コバーンを殺したのはカート・コバーンだ。だが犯人であると同時に被害者でもあった。誤った考えの——カウンターカルチャーの思想の犠牲者だった。自分はパンクロッカーだと、「オルタナティブ」音楽の担い手だと思っていながらも、彼のアルバムはミリオンセラーとなった。

 (中略)コバーンはオルタナティブ音楽へのこだわりとニルヴァーナの商業的成功の折り合いをつけることが、どうしてもできなかった。結局はこの袋小路から抜け出すために自殺した。誠実さがことごとく失われる前に、完全に裏切り者になる前にいま終わるほうがましだと。そうやって「パンクロックこそ自由」という己の新年を堅持することができた。すべては幻想かもしれないとは考えなかった。

ジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター「反逆の神話」より

社会への反体制を掲げたはずのカウンターカルチャーが、結局は資本主義に加担するものでしかなかったという欺瞞を語る「反逆の神話」。そして晩期資本主義の閉塞感を書ききったと言っていい「資本主義リアリズム」。

両著作とも出版から10年以上も経過しているが、現代の世界の行き詰まりや無力さについて考える場合、この2冊を読めばおおよそのところまでつかめるだろう。両批評に共通しているのは、資本主義への反抗や批判はどこまでも最終的に資本主義の拡大に回収され、ここまで世界が行き詰ったとしても資本主義以外の代案が提示できず、出口がないということだ。

そんな「反逆の神話」と「資本主義リアリズム」の第一章にて言及されるのがニルヴァーナのフロントマンたるカート・コバーンなのである。

いまだにスメルズライクティーンスピリットが映画『THE BATMAN-ザ・バットマン-』からMMAの入場曲(日本のレジェンダリーな総合格闘家である宇野薫氏がアレンジ版を入場で使っている)まで繰り返されている。彼らがニルヴァーナを使う意図はわからないが、なんらかのクールなアイコンとして使っているんだろうということだけは確かだ。

しかしそんなアイコンとしてではなく、ある程度の距離をおいてニルヴァーナを批評的に振り返っているものはないのか? そう思っていたところで、両批評が論旨を固めてゆく助走としてでカート・コバーンを評したのが興味深かった。

「反逆の神話」と「資本主義リアリズム」は批評の第一章からカート・コバーンについて言及し、ポピュラーカルチャーの欺瞞と資本主義の行き詰まりを論じるための象徴的な存在として評している。表向きには田舎町から経済的な成功を手にしてしまうも精神的な混乱に見舞われ自殺した若きロックスターの悲劇。だが時を経て、批評家が彼に見出したのは晩期資本主義世界を先行して体現したことだった。

特に「資本主義リアリズム」でのカート・コバーン評は現在インディーゲーム(そしてアートハウスゲーム)について取材したり批評したりしている自分にとって吐き気がしてくるような記述で始まる。

例えば、従来的な反逆や抵抗の身振りをひっきりなしに、しかも、まるで初めてのように繰り返し続ける「オルタナティヴ文化」や「インディペンデント文化」といった安定した領域の確立をみてみよう。「オルタナティヴ」や「インディペンデント」なるものは、メインストリーム文化の外部にある何かを指すのではない。それらはむしろ、メインストリームに従属したスタイルというばかりか、その中で最も支配的なスタイルにすらなっているわけだ。カート・コバーンとニルヴァーナほど、この膠着状態を体現した(またはそれと闘った)類例はない。

その凄まじい倦怠感と対象なき怒りにおいて、コバーンは、歴史の後に生まれた世代、あらゆる動きが事前に予測され、追跡され、購入され、売却される世代の声となって、彼らの失望と疲労感をあらわすと思われた。自分自身もまたスペクタクルの延長に過ぎないことを知り、MTVへの批判ほど、MTVの視聴率を上げるものはないということを知り、そんな彼の身振りはすべて予め決定された台本に従うクリシェに過ぎない、という自覚をもつことですら、陳腐なクリシェに過ぎないのだと、コバーンは全てわかっていた。コバーンを麻痺状態に追い込んだこのような行き詰まり感は、ジェイムソンが描いた状態そのものである。ポストモダン文化について一般的にも言えるように、コバーンは、「様式の革新がもはや不可能となった世界、過ぎ去った様式の模倣と、想像の博物館の中にあるいくつもの様式という仮面と声を通してしか語ることのできない世界」に立たせられていた。そこにあっては、成功さえもが失敗を意味した。

マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』より

「反逆の神話」と「資本主義リアリズム」を通したカートへの評を皮切りに始まる本論は、彼の代表曲に何らかのリミックスを通していくみたいな読みごたえがある。そう、スメルズライクティーンスピリットをヴェイパーウェイブのフィルターを通したような感じだ。

「 “ヴェイパーウェイブのニルヴァーナ”みたいなアレンジはあるんだろうか」そう思ってYouTubeを検索してみると、けゾゔ奥という人がリミックスしたスメルズライクティーンスピリットがあった。

Aメロの静かな音から、サビで爆発的なギターの轟音とボーカルが絡みあう原曲はまるで躁鬱を表すかのようだ。対してリミックスはヴェイパーウェイブらしいチョップ&スクリューによるアレンジ(シンセウェイブ的な音も入っているが)には鬱が深くなり身体が反射的に暴力をふるうかのような勢いはなく、音と声はぼやけ、緩やかに流れてゆく。

ヴェイパーウェイブは台頭した当初、80年代の日本のCMから古いWindowsに至る記号を引用し、消費社会や資本主義に対する批評性を見せた。ところが同時に莫大な消費コンテンツが拡大するノスタルジックに思い返すという不気味な感傷も持つ。対象を批判しながらも、その対象に取り込まれていく虚しさと悦びがこのジャンルのほとんどだった。

すでにヴェイパーウェイブも台頭からかなり時間が経ち、当初の意味を失効した。昔のWindowsや石膏像やロゴをあしらったアートスタイルは、『水曜日のダウンタウン』OPをはじめとする日本のTV番組のOP映像やCMに活用される程度には “クールな表現”としてコマーシャルに回収された。

『反逆の神話』と『資本主義リアリズム』が揃って語るように、どんな批評性も批判性も最終的にコマーシャルへと回収されていく流れを辿った。結局のところ、 “メインストリーム文化の外部ではなく従属”のひとつであり、 “あらゆる動きが事前に予測され、追跡され、購入され、売却される”文化に過ぎなかった。しかしヴェイパーウェイブはそんな流れすらも、あらかじめ自覚している。何重にも俯瞰しており、諦念に満ちたジャンルでもある。

あまり繋がりを考えづらかったヴェイパーウェイブとカート・コバーンというふたつは、『反逆の神話』と『資本主義リアリズム』を通して点が線となる。批評行為とはクリエイティブに転換するならば、ある意味でフィルターなのだ。初期のヴェイパーウェイヴとはそんな批評的なフィルターだった、といまさら評するのも虚しい話ではあるが。

ヴェイパーウェイブのスメルズライクティーンスピリットは、出口のない晩期資本主義世界を端的に示すものとして意味深いのである。通俗的なニルヴァーナ評、カート・コバーン評、並びにヴェイパーウェイブそれ自体のアクチュアルさもとっくにリアリティを失ったが、両者を重ねた瞬間に出口のない世界観の暗闇が広がるのである。

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