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5. 二番目の病院(希望と絶望の間) <父を看取れば>

N病院への転院は、まだ残暑の厳しい8月の末だった。病院へは無料のシャトルバスがあり、毎日見舞いに通っていた母は「だいぶ楽になった」とホッとした。

倒れてから一ヶ月、父はリハビリを続けてはいたが、その内容はどんど先細りしていた。風船の受け渡しのような簡単なリハビリでも、すぐ疲れてへたり込んでしまう。日中もウトウトとしていることが多くなった。

海外で生活(そして勤務)している私は、すぐ父の見舞いに行くことはできなかった。毎日のようにメールのやりとりしていた母も、「今はまだなんとか安定しているから、慌てて来る必要はない」と言ってくれていた。せめてもと思い、私は次のメッセージを父に渡してもらうように頼んだ。「パパ、体の調子はどうですか?海外にいて、なかなかお見舞いに行けなくてごめんなさい。パパが安寧に過ごせるよう、毎日祈っています。ママとの”デート”を楽しんでくださいね。」少しでも明るい気持ちになってもらえれば、と祈るような気持ちだった。

N病院で両親は「仲のいい夫婦」として有名だったようだ(昔は父のモラハラのせいで離婚寸前までいった夫婦なのに、何だか皮肉なことだ。)母は、毎日毎日病院に行って、一時間ほど父の側で過ごした。母が来ると、父の顔はぱあっと明るくなり、面会時間中ずっと笑顔となった。ずっと母の手を握り続け、「K子が居て本当によかった」とらぬ呂律で何度も何度も繰り返したという。母が帰る時間が来ても、父はなかなか手を離したがらなかった。

「早く家に帰りたい」と毎回言う父。母が答えに窮していると、「俺は家に帰れるのか」と訊いてくる。母には嘘がつけなかった。「体が良くなったらね」と言うこともできなかった。母は、父が生きては二度と家には帰れぬことを知っていたのだ。

9月の2週目に、姉夫婦と一緒に母は、病院で父の状態についての説明を受けた。嚥下麻痺は続いており、常に肺炎の危険性がある。リハビリは細々と続けているが、回復の見込みは無きに等しいということだった。

父が家に帰ることを切望していると聞き、私は実家で看取り介護ができないかどうかを調べ始めた。介護保険やホームドクター、在宅ケアの援助などについて毎日仕事が終わった後、調べて母に知らせ続けた。しかし母の答えは「ノー」であった。

まず、ハードルが高かったのが経管栄養の問題だ。”胃ろう”という選択肢は、考えていなかったので余計だ。また、ヘルパーさんが毎日来てくれたとしても、小柄でか弱い母にとって、父の介護はあまりに負担が大きい。自分の母(私の祖母)の介護で行き詰まり、最終的に施設に頼ることで乗り切った母は、結局プロに任せることが、共倒れにならない方法だと痛感していたのだ。

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