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父を看取れば

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2018年の夏に日本にいる父が脳梗塞で倒れました。そこから約半年の家族のドタバタを通して、日本の「看取りと介護」について考えてみました。
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#死

7. 帰国して見舞う前の準備 <父を看取れば>

私の居住国では、11月の後半に4連休となる祝日がある。仕事は忙しかったが、3泊4日の旅程で帰国して、父を見舞うことにした。 一番の課題は、担当医師に「経鼻胃管」の抜管を頼み込むことだった。父は意思疎通はできていて、経鼻のチューブを死ぬ程(?)嫌がっていた。10月に誤嚥肺炎を起こして緊急処置を受けたのだが、その時(治療のために)一時的に抜かれた管は、肺炎の回復とともにまた挿れられてしまった。 勿論母は、その時この医師の方針 ーこのまま経鼻を継続、肺炎になれば積極治療をするー

6. 悪化する状態と父の変化 <父を看取れば>

N病院に転院して一ヶ月ほどした10月初旬。母から次のようなメールが届いた。「パパは高次機能障害で運動などは思う様に出来ません。 初めの頃に比べれば両手が少し動くし、足は左右動かせますが立って歩く事は不可能です。私やRちゃん(姉)が行くとにっこり笑って嬉しそうです。一応喋れますが、かなり聞きづらい。運動機能はこれ以上に成る事はない。 嚥下(障害)や麻痺・・・この状態が生きている限り続くと思うと辛いです。 少しづつ弱っています。何時まで生きるか分からないけど、お見舞に行って手を握

5. 二番目の病院(希望と絶望の間) <父を看取れば>

N病院への転院は、まだ残暑の厳しい8月の末だった。病院へは無料のシャトルバスがあり、毎日見舞いに通っていた母は「だいぶ楽になった」とホッとした。 倒れてから一ヶ月、父はリハビリを続けてはいたが、その内容はどんど先細りしていた。風船の受け渡しのような簡単なリハビリでも、すぐ疲れてへたり込んでしまう。日中もウトウトとしていることが多くなった。 海外で生活(そして勤務)している私は、すぐ父の見舞いに行くことはできなかった。毎日のようにメールのやりとりしていた母も、「今はまだなん

4. 家に帰りたい!父のリハビリ <父を看取れば>

最期の時を迎えるまでに父は、3つの病院で時を過ごした。 急性期に1ヶ月居たS病院。その次の3ヶ月を過ごしたN病院。そして看取り介護(1ヶ月)を受けたB病院である。 S病院では、危機を脱した翌日からリハビリが始まった。回復の見込みがないことは、ほぼ明らかだったのだが、多分それが脳梗塞患者への”通常のプロトコル”なのであろう。 療法士はとても親切な男性で、毎日1時間、父を支え励ましながら歩行訓練をしてくれた。毎日病院に通った母もリハビリに立会い、よろける父を助けた。父は持ち前

3. 「経管栄養」の決断を迫られた母 <父を看取れば>

脳幹梗塞は、脳幹部の血管が詰まることにより、周辺部の脳細胞が壊死して症状がでる病気だ。この診断を受けた父には、すぐに色々な障害が出てきた。手足(特に右側)と顔が麻痺する。ろれつが回らず、飲み込みができない(嚥下障害)等...。 入院の準備をバタバタとし睡眠もあまり取れなかった母は、すぐに難しい決断を迫られた。 「栄養補給について」だ。「飲み込む力がないので、体にチューブを入れて直接栄養を入れるしかありません。胃ろうか、鼻から管を入れて胃に栄養を送る方法がありますが....」