表現方法を磨くことに、人生を捧ぐ
自分の中の真理を深めるような出来事が、最近あったので忘れないようにここに留めようと思います。
「大事なのは、"真実"ではない、
大事なのは、"表現方法"である」
これは、私の価値観です。
例えば貴方はピカソが好きじゃないとする。
絵画そのものに興味が無いということではなく、ピカソの絵にピンとこない。良さがわからない、とする。
それに対して、貴方のそばにいる誰かが
「絶対に心からピカソを好きになって欲しい。ピカソについて語り合いたいし、そういう人を求めている」
と要求してきたら、どうだろうか。
「何をどう感じるかは個人の自由なのに、それを変えなくてはいけないの?」
と、思わないだろうか?
感性は、自由だ。完全なる自由である。
誰にも決められないし、薬を飲めば変わるとか、努力で変えるとか、そういうものではない。
ものの感じ方、考え方には、善も悪も正しいも間違いもないのだ。
誰かが支配することもコントロールすることもできないのだ。
なので、もっと端的に言うなれば
「目の前の人間が何を考えていようと、その意思に自分は関与できないのだ」ということである。
他人に対して、知らず知らずに多くを望み過ぎてしまう人は、"真実(その人が本当に感じていること、考えていること)が何なのか"に捉われやすい。
真実を知ること、そしてその真実を理解する(理解させる)ことに注力してしまう。
それは、する側にとってもされる側にとっても、非常に困難を極める行為だと思う。
なぜならその人にしかない感じ方も考え方も全て含めて「その人」だから
それは「人格」であるから
真実を変えさせようという行為は、人格を変えさせる行為に等しい。
それは、非常に非常に困難なことだと思わないか?
同じ人間などいない、皆バラバラの人格を持つこの世界で。
一体どうしたら、互いの人格を尊重しながら歩み寄れるのか。
……
そのために、私は、"真実そのもの"ではなく、"真実をどう表現するか"が大事だと思ったのです。
冒頭の例の続きですが、逆に貴方が誰かに
「絶対に心からピカソを好きになって欲しい。ピカソについて語り合いたいし、そういう人を求めている」
と要求したとして、それに対して
「ピカソって個人的にはあまりピンとこないけど、ピカソに影響を受けた画家はたくさんいるし偉大な功績を残した人だよね」
という表現をされた時に、
「それってつまり好きなの?嫌いなの?」
という思考になるのではなく
「うまく表現してくれて(ピカソを否定することなく感想を述べてくれて)ありがとう」
という思考になれたら。
真実ではなく、それを「どう表現してくれたか」に対して、尊重することができたら。
表現方法は、努力すれば上手になる。
真実(人格)を変えることなく、互いが自分なりに表現し合い、そしてその表現方法や表現内容だけに注力できたら。
表現方法は、努力すれば上手になる。
言葉の選び方、文章の組み立て方、相手の立場を慮る思考、自分の人格も相手の人格も傷つけることなく表現する方法。
私はこの技術を高めたい。
そんな技術がある人と議論したい、分かち合いたい。
例え家族であろうと、最も近しいような相手であろうと、
自分も相手も尊重しながら表現する価値があるし、
そうやって表現されたなら、相手の持つ真実より「表現するための努力」をまず認めて尊重することに価値がある。
私は、それでいい。真実を知ることはそう重要ではない、と思ったのです。
相手の中に存在する真実よりも、私に伝えるために努力して工夫して表現してくれたこと、そのことを最大限に受け止めたいと思っています。
言葉や態度(表現)ってのは、磨けば光りますからね。
仕事、家庭、恋愛、友人関係、対人関係
すべてにおいて、表現が上手な人の周りには平和が存在していると考えます。
さて、ここまで私の価値観を述べさせていただきました。
もし、「いやいや真実は何より大事だ、嘘はつくのもつかれるのも嫌だし、本音を隠されると信用できない!」という方がいらっしゃいましたら、私はその価値観を一切否定しません。
なので貴方も、私の価値観を否定せず、その意見を表現していただけたらいいなと思います。