サリエリになれたらいい
アートが好きなので(絵画から建築まで)、行ける場所には足を運び、行けないものも写真や動画で観て楽しんでいる。
そう、楽しんでいる…けど、いつも心の隅にはそれらを創り、造る者達への尊敬と畏怖のほかに嫉妬、そして自己卑下の感情があることにも気付いている。
どうして私はそちら側に行けなかったのだろう?
あんなに想像することも生み出すことも大好きだった、幼き日を思い出す。
保育園の頃は、「ハカセ」になりたかった。何でも作ってみたかったから。
魔法使いになりたい、じゃなくてハカセになりたい、という発想がむしろ現実的で私らしい。
小学生の時は漫画家になりたかった。オリジナルの漫画をコピーしてホチキス留めして、友達に配り歩いていた。
中学生の時は作家になりたかった。絵よりも文章を書く喜びに没頭した。
高校生の時は、シンガーソングライターになりたかった。自分が書いた詩に唯一無二のメロディーをのせて、ラジカセに録音した。
私の歌を聴いて、泣くほどに感動してくれた友人たち。今でも宝物。
ずっと、作り続けていたはずだ
ずっと、生み出していたはずだ
なのにどうして私はそちら側にいけなかったのだろう?
答えは簡単で、努力も才能も足りなかったからに他ならない。
大好きな映画「アマデウス」、この映画の主人公は、モーツァルトへの嫉妬にもがき苦しむサリエリだ。
しかしサリエリは、実は作曲家としては秀才止まりでも、批評家としては天才だった。
彼以上にモーツァルトの天才性を理解でき、伝えられる者はいなかった。
天才は、周りが天才であると気付かなければただの変人だ。
ゴッホだってゴーギャンだって、もし身近にサリエリのような存在が居れば、存命中に世間に認められていたかもしれない。
もしくは、今現在存在している、あらゆる過小評価されているアーティスト達にだって、
サリエリのような存在が居れば光が差しているのかもしれない。
もちろん、「サリエリ」の立場からすればいずれにしても辛いものだ。
だけど理解できる者がいなければ、伝えられる者がいなければ、
表現という「対話」は成り立たない。
(※以前フォロワーの"タケノコ"さんよりいただいたコメントより、映画作家の大林宣彦監督からのお手紙の言葉を拝借させていただきます。素敵なコメント、ありがとうございました!)
表現とは対話であり、受け手がいて初めて成り立つものだと。
私はサリエリになりたい。
モーツァルトになれなくても、サリエリにしかできない表現(=対話)が絶対にあるから。
嫉妬心を消すことはできない。
でも、嫉妬心ほど、人間を人間足らしめる感情など無いと思う。
もがき、嘆く、ちっぽけで弱い存在を、賛美したい。
少しでも救われる者がいるから。
意味のないことに、意味があるから。