見出し画像

見知らぬ愛し方

自分はまだ愛するということを知らない。
愛おしいという感情は知っていても、愛するという行為は知らないのである。
多分世の中の大半が、愛すると愛おしいは同等であるというだろうが、
自分はそうは思わない。
まあ、簡単に言うと愛おしいとはただ守りたいと思える感情であり、
ここに自己犠牲を付け加え、実行できるのが愛するという行動であると考えている。


愛情に飢えるということが人間にとって生と死を左右してしまう、危険な状態だと理解したのは、小学4年生の時だった。
親の離婚である。
その前から我が家は家庭内別居状態であったため、特段気にすることもなかったのだが、人間の感情は都合の良いもので、いざ離婚するとなると寂しさがこみあげてくるのだ。
話し合いを終えた両親に「離婚しないで」と一言、つぶやいたのが自分の最も古い記憶である。

家庭を顧みるような父ではなかったし、いずれは離婚してしまうだろうとは
どこかで予想していたが、こんなにも早く来るとは思わなかったのだ。
でもあの日、一言つぶやいた自分に何も言わず、抱きしめることもなかった父を目の当たりにすると、妙に納得した。
自分は父にとって愛情を注ぐ対象ではなくなったのだと。

その日の夜、人生で初めて「死にたい」と願った。
もう誰からも愛されることはないのだと勝手に考えた。
生きることについて真剣に考えた。
同時に人間がこの世で一番弱い生き物であると知った。
愛情がなければ、人間は簡単に死への道のりを歩み始めるのだと。


なぜ、自分は愛することができないのだろう。
自分が子どものような心をしているから?恋愛をしたことがないから?子供を産んだことがないから?
三つとも当てはまるが、そうではない。
自分を好きになれない、愛せないからである。
最初に愛するとは、誰かを守りたいと考え、自己犠牲が実行できることであると述べた。
自分は自分に対して、自己犠牲が払えるほど守りたいと思えないのである。
「自分のため」という言葉が付くと、必ず行動することをためらってしまう。
誰かがけがをすれば心配症を発動するが、自分がけがをしたとしても治療せず放置する。むしろ自傷行為にも走る。
でも、自分を愛せないのは辛い。
物体として自分が嫌いなのも辛い。

自分が嫌いという感情に耳を傾けすぎたせいなのか
どうすればいいのかを大人になる途中で見失ってしまったようだ。





いいなと思ったら応援しよう!