生きるとは
最近自分のなかで腑に落ちたことがひとつ
生きるとは
普段から考えることが多く、
人よりも5倍は何につけても考えていると思う
考えすぎが以前は弱点になっていた気がするけど、
ある時尊敬する人から言われた「それだけ考えられるってすごいよ」
そんな単純な一言で、考えすぎな自分を責めなくなった
そんな私の中で比較的幼い頃から考えていたことが、
生きるってなんだろう?という哲学的な問い
そんなに頭もいいわけでなく、考察しているわけではないけれど
普通の人間としてふと疑問に思った。
いろんな自己啓発本を読んだり、人に聞いたり、さがしたけど
しっくりとくる答えは見つからなかった(答えを探して旅にも出て、今の旦那に出会ったけれど。)
そもそもこんな堅苦しいことを考え始めたのは、単純なきっかけ。
子供の頃、学生時代はいつも何かイベントややることがあった。
入学、行事、試験、卒業、、、ころころと変わる目的や事柄にいつもウキウキしていた。
今挙げてみると人生におけるビックイベント結婚、出産、就職等に比べて学生のイベントなんて大したイベントではないが、その頃はやることに飽きることはなかった。
しかし、進路を考え、大人の仲間入りをするときふとした疑問が浮かんだ。
大人って、何を楽しみに
何を生きてるの?生きるってなに?
じゃぁ、これまでの生活も何のために生きてきたの?と聞かれてしまうと答えられはしないのだが。
単純な私は、周りの情報から想像できる大人の日常
仕事に行って、休日は休んで
という普通の大人のサイクルに何も興味がもてなかった。
少なくとも、今までのようなウキウキとする感覚があまりしなかった。
気がつくとそんな自分も社会人をすでに数年経験している。
毎日のタスクで忙しくなるなかで、そんな昔の素朴な疑問は薄れていった。
しかし、ふとした時に、どこかでまだ探しているあの答え。
なにかをするとき、どうしても細かいことに意義を見出そうとしてしまう正確だからか、ふとしたときに未だに考えてしまう。
あれは、旦那が仕事で行き詰まったとき。
どうにかして支えてあげられないか、そう思ってパソコンのキーボードをたたく。画面にはありきたりな文字しか並んでこない。
私はふと旦那が以前インドで瞑想をしたり、修行し、仏教を学んで救われたということを思い出した。宗教に関してはわからないことが多く、それ故苦手意識もあったため自分から学ぶことはしたことがなかった。
だけど今回はそんな仏教を少し知ってみたいと思った、なにか旦那を助けることができたら、そんな一心で。
恥ずかしいことに、仏教を宗教と思っていた私は、このとき仏教は宗教ではなく、一つの思想であることを知る。釈迦という実在した(確かではないが、そうとする説が多い)目覚めた人の教えを説くもので、その教えは現在でも通ずるものが多いことに驚きを隠せなかった。
改めて、人間は時代、国、人種は違えぞ、基本的には同じなんだなと思った。そんな釈迦の教えのなかに、いままで私の中で引っかかっていた問いの答えが転がっていた。
人間は自然の一部分、何でもない。生きることは苦しみを伴う。
人生とは、こういうものなのだ。生きるとは、そういうこと。
何かはっきりとした結果や景色を想像していた私にとって、それはある意味で衝撃だった。今までその何かを目指して色々してきたけど、結局そのなにかではないのだ。
自分に向き合い、様々な欲をコントロールし、苦しみをも受け入れる。あるがままを受け入れる、そんなありきたりなことが生きるということ。
私は少し肩の力がぬけた。
いつも他人の何かが羨ましかった。
満足しているつもりでも、いつもどこかで自分と他人を比べては落ち込んで、自分を責めて。いつも何か不十分だと思っていた。
しかし、今は自分を受け入れることが少しできている。
この時代、情報でありふれている。便利さ故に、自分の本心も失いやすい。常に、無意識のなかでなにかに影響されやすい環境にいる。
しかしそんな環境でも、今は一歩引いたところから見ることができる様になった。
いつでも足りている。
足りないのは、その事実を受け入れる自分の心なのかもしれない。
これからも、迷ったときは本心へ戻れるよう、そっと心のなかでブッダの教えを胸にしまった。