誰かに出会わなければいけないだろうか
52ヘルツのクジラを読んだ。
【ネタバレを含みます】
【一度読み終わったばかりの勢いで殴り書きしています】
【内容と解釈についてまだ甘いところがあります】
【初見感想実況だと思ってください】
中盤からラストにかけて、あなたに出会えてよかった、あなたの言葉を聞けてよかった、私の声を聞いてくれてありがとう、この二人しか通じ合えなくとも二人だけでも言葉を分かち生きていこうという感覚が染み出してきて、
わたしは辛かったりした。
52ヘルツの鯨とは世界にただ一頭、自らの声を聞き届ける仲間を持たない鯨である。かの鯨の声─鳴き声の周波数─は、一般的な鯨と決定的に異なっている。52Hzという鯨にしては高いその音を拾える同類はいない。52ヘルツの鯨が鳴き声を発するとして、その声に返すものはおらず、会話というものは発生しない。誰が言ったか“世界で一番孤独なクジラ”、それが彼の正体、的確な呼称だ。
寂しいだろう辛いだろう、鳴き交わす生き物だから声を与えられているのにそれが誰にも届かず、真にひとりきりであの広い海を彷徨っているというのだから、まさに本物の孤独だろう。最初はそう思っていた。実際不便だろう。鯨は種にも寄るが群れることもある。そもそも会話できる前提で備えられたその機能で暗がりに呼びかけているのだから(声を発さなければ人は彼?を見いださなかったわけだし)誰かを探しているのではないか。そう考えるのはシンプルで、多分何も間違いがない。
この本の中で主人公は、言葉を聞いてくれる存在と出会う。
言葉を聞き届けられなかった者と聞くことができた者、そして聞いてくれた者が丁寧に描かれていて、孤独に蝕まれながらも通じ会えるものに出会う、救いあえるという、雨上がりの虹のような希望のあるエンディングだったと思う。
どうしても、誰かに出会わなければいけないんだろうか。
読み終わるまで、感動で目の奥に涙を感じたり、普通に素敵だなと思っていたけれど、読後に湧いてきたその思いに目をつむることはできなかった。
52ヘルツの鯨は死ぬまで誰とも話せない。話し声は海の泡になって消える。それは虚しいことだと人の目には映る。そしてひとりでは生きていけずぬくもりを求める寂しい人間の姿とそれを重ねる。
事実52ヘルツの鯨は生き物としては致命的に欠陥がある。会話ができなければ仲間に知ってもらうことができず、番う相手もおらず、子孫を残すことなく終わるだろう。そしてそれは、仕組みとして正しい。
だから鯨を不幸だと思うのは別にそれでいい。実際の幸不幸はわからないけれど、孤独だと思うのは人の勝手だし、事実遺伝子を残すことができないなら動物としては失敗と定義できるだろう。
けれど、それを人に投影して、声が届くことなく命を終えることが寂しいものだと言葉の外で語り、そんな中で通じ合える奇跡を描かれたことが、どうしても胸に突き刺さってしまったのだ。
どうしてもこの声は誰かと話すためのものなんだろうか。
ひとりで叫び歌っているとき、身のうちにはたしかに孤独がある。同じ言語で、意味をわかることばで話していても通じ合えないことがあると知っている我が身は一生寂しさを忘れることなく、人のあたたかさを夢見ては求めるのだろう。
けれど、誰にも出会えず、また誰の声も正確に受け取れないまま命を終えていくことがあったとしてもそれはひどく当たり前のことで、嘆き悲しむべきことじゃないとどこかで思っていたいのだ。そんなわたしの心がこの物語をまだどこかで拒んでいる。
誰にも会えなくたっていいじゃないか、ただすれ違ってほんの二言三言違う言葉で会話して、わかった気になって何もわかっていないのが人間だ。たったひとり分かち合えるような人に出会うという奇跡がなければ人生は虚しいのだろうか、いやそんなことはない、道の辻で誰かとすれ違ったことを一人思い出しているような人生でもきっとしあわせだ、むしろ誰がいようったって人間は孤独じゃないか────
周囲の言葉の意味はわかる、そんな中で声を上げれはするのに誰も応えてくれないなんて、耐えきれない苦痛だろう。人であるなら死んでしまいたいくらい。だから誰かに出会えるというのは救いだ。人間は生まれながらに他者を知っている。庇護されなければ生きられない弱い時期を持ち、その中で自分以外の言葉を聞くからこそ寂しさを理解する。
それはわかっているから、誰かと出会い言葉を聞きあえた終わり方に違和感はなかった。収まるべきところへ収まったんだと思った。けれど、どうしてもその美しさを飲み込めない。不自然なのは私のほうだろうか。