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『ナミビアの砂漠』罪に直面する男たち

世の中も、人生も全部つまらない。やり場のない感情を抱いたまま毎日を生きている、21歳のカナ。優しいけど退屈なホンダから自信家で刺激的なハヤシに乗り換えて、新しい生活を始めてみたが、次第にカナは自分自身に追い詰められていく。もがき、ぶつかり、彼女は自分の居場所を見つけることができるのだろうか・・・?

『ナミビアの砂漠』公式サイト

「これはお前の物語だ」と何度もカナに突きつけられるような映画だったな、と思った。カナにせよ、ホンダにせよ、ハヤシにせよ、(もちろん100%ではないにせよ)その行動に不可解なところはほとんどなくて、どのキャラクターたちの気持ちもよくわかる。少なくともわかったような気がしながら観ていたし、わかったような気がすることは決して傲慢なことではない、とも思う。
わかったようなことを簡単に言ってほしくはないけれど、でもわかってほしい。そういう気持ちも含めて、わかってしまう。

色々な人の感想を読んでいると、書き手の属性がなんとなく透けてくる。女性の多くはどこかでカナに共感するか、いくらなんでも身勝手すぎるとして突き放すか。いずれにせよ、そのテキストはすごく私的になるし、そうした私的な語りの中に映画の世界と地続きの現実がある。一方で、おそらく男性と思われる書き手の文章はなんとなく俯瞰的で、なんだか他人事みたいだなと思った。もちろん全ての感想に目を通したわけではないのだけれど、『ナミビアの砂漠』には重要な男性キャラクターが少なくとも二人いるのに、ホンダやハヤシの話を男性の目線で語る人が思ったより少ないような気がした。

正直に言って、男性にとって彼らの目線に立って語ることが憚られるところはあるように思う。『ナミビアの砂漠』は紛れもなくフェミニズム映画だ。わかりやすい主張はないけれど、女も男もフェミニズムと無縁ではいられない令和6年の日本の現実を冷酷に抉り出している。その中でホンダはあまりにも情けないし、ハヤシも多くの問題を抱えている。男性にとって、自分の中のホンダ的な部分やハヤシ的な部分に向き合うのは、そんなに気分がいいものではない。

でも、だからこそ一人の男性の観客が自分の中のホンダやハヤシにフォーカスを当てて感想を書き残しておくことには意義があるかもしれない。

誰がホンダを嗤うことが出来るだろうか

恋の終わりは いつもいつも
立ち去る者だけが 美しい
残されて 戸惑う 者たちは
追いかけて 焦がれて 泣き狂う

中島みゆき『わかれうた』

誰から見ても、作中のホンダの行動は情けない。尽くしてもカナからは碌な反応が返ってこないし(もうとっくにホンダへの気持ちは失われているから)、会社での風俗の誘いを断る勇気もカナに嘘を突き通す胆力もないし(あったところで何かが好転したわけでもない)、ずっとおどおどしているのに急に大声を出すし、堕胎したというカナの見え透いた嘘にも騙されてしまう。

では、ホンダは本当にカナのことを何もわかっていなかったのだろうか?そうだとしても筋は通るけれど、そうじゃないかもしれない。私は、ホンダは半分くらいはわかっていたのではないかと思う。そして、わかっていないふりをしつつカナに媚びるという戦略を取っていたのではないかと思った。

かつて自分に好意を向けてくれていた(かもしれない)人が、もはや自分に興味を失ってしまいつつあるということがわからないほどホンダは鈍い男ではなかったのではないか。それを繋ぎ止めるために彼は泥酔して帰ってきたカナを甲斐甲斐しく介抱し、手料理を作り、しきりに水を勧めたのだろう。

風俗に行ったことを正直に告白したのも、罪を吐き出して楽になりたかったというより、「自分の罪を正直に告白できる可哀想な自分」を演出することでカナの気持ちを繋ぎ止めようとしたのではないか。
ホンダは、風俗嬢を「汚かった」と言った。ただ、自分の知る限り、普段風俗に行かないような男性が風俗嬢を「汚い」と言っているのを見たことも聞いたこともない。風俗を利用したことがない自分の実感として、風俗嬢を「汚い」と思う感覚は正直わからない。業界として倫理的に問題がある部分はたくさんあると思いつつ、しかしそれは生理的な嫌悪感ではない。ヘテロセクシャル的な文脈における性に対する生理的な嫌悪感は女性特有の感覚だな、と感じる。だから、ホンダが余程の潔癖症なのでなければ、「汚かった」という発言は「カナから見たら汚いよね、俺はわかっているよ、だから俺は興奮なんかしなかったよ」という媚びのように見えた。まあこれも悪手でしかなかったのだが……。

最後の別れのシーンもホンダの言動はどこか演技がかっていて、それは自己憐憫でもありつつ、「純朴で可哀想な自分」をアピールすることでなんとかカナが去っていくのを留めようとしたのかな、と感じた。もはやそんなことをしてどうにかなるような話ではなかったのだが、焦った彼の頭の中にはそれしか残された手段がなかったのだろう。

そして、結局ホンダはカナの核の部分には何一つ触れられていなかった。ホンダがカナにピルを飲ませるシーンでは、たぶん多くの観客がギョッとしたことだと思う。ホンダの所作は手慣れていて、これが初めてということでもないらしい。避妊のために交際相手にピルを強要する男という人物像はどうもホンダにフィットしないようにも見えるから、避妊目的ではなく月経の症状の緩和のためなのかもしれない。しかし、ハヤシと付き合い始めてからカナがピルを服用している様子もない(私が見逃していたのでなければ)。作中ではっきりとは描写されなかったが、カナには自分自身か、少なくともごく身近な人物の中絶経験があるはずだ。医療関係者でもなければ胎児のエコー画像を見てもそれが胎児のものであるとすぐにわかる人は少ないだろうし、後半のハヤシへの噴出は明らかに個人的な体験から来るトラウマが原因になっている。そして、父親から性的虐待を受けていた、あるいは年上の人物の性的虐待を父親が黙認していたといった可能性も示唆されていた。

だから、カナにとってホンダからピルを差し出されるのは、仮にそれが避妊目的ではなく完全な善意だったとしても相当嫌だったはずだ。でも、常にカナの機嫌を伺っていたホンダはそれを知らず、そして知らないうちにカナの地雷を踏んでいた。そうでなくても、ピルというのはリプロダクティブ・ヘルス/ライツの一丁目一番地で、それを男に管理されている/させているという時点で対等な関係ではないのかもしれない。

最初から最後までホンダは哀れな男だった。でも、私がホンダだったとして、何か出来ただろうか。カナの気持ちを察して美しく身を引くなんてことが出来るだろうか。出来たとして、それが何になるのだろうか。
ホンダに罪があるとすれば、とっくに対等な関係ではなくなっていたのに独りよがりな形でカナを引き止めようとしたことだろう。でも、彼には足掻くしかなかった。格好悪いということを罪にしてしまうのは流石に酷かな、と思った。

それでもハヤシはようやっとるよ

ハヤシの罪はわかりやすい。過去に女性に望まない妊娠をさせていて、中絶した(させた)ことだ。
カナは、それに対してありったけの弾劾を投げつけた。
「映画なんか観てなんになるんだよ」
「お前みたいな男が作ったものが世界に溢れたら毒」
「どっちかって言ったら、おかしいのはお前のほうだもんな」
クリエイターに向けるものとしてこれ以上に鋭いナイフがあるだろうか、という言葉をカナはいくつもハヤシにぶつける。『ルックバック』や『違国日記』を観ている時も思ったが、近しい人間からクリエイターを目指す自分というアイデンティティを否定されるのは、たぶん相当つらい。ハヤシの場合もちろん悪いのは自分なんだけどさ……。

ハヤシは確かに実家から豊富な援助を受けているが、いわゆるエリートコースには進まなかった人間だ。友人はおそらくもっとセレブだったり、官僚として活躍したりしている。一方で彼はクリエイター、もしかしたらまだその卵くらいかもしれない。あらすじに書いてあるほど彼は自信家ではなく、奥に劣等感を隠し持っていても全然おかしくはない。そんな彼に向ける言葉としては、流石にちょっと手厳しすぎるのではないか、とも思った。普通、それを言ったら戦争だ。

「カナは俺にどうして欲しいの」
「自分で考えろよ、クリエイターなんだろ」
目の前の相手に開き直ってなあなあにし、ハヤシが自身の罪と向き合うことから逃げることをカナは許さない。

どこか別の記事で語ろうと思っているが、女性の怒りは男性の罪悪感を惹起し、ばつの悪さを感じさせる。そして、続く反応のパターンはさして多くない。否定、開き直り、萎縮、逃走のどれかだ。
過去の罪を償うのは難しい。どうすれば償ったことになるのかなんてだれもわからない。相手が直接の関係者ではないとなればなおさらだ。

カナは基本的には正しい。少なくとも、そんなに悪い人間ではないし、感情が昂りやすくはあるけれど、怒りの回路自体はとても理性的だ。
一方、他人の正しくなさを糾弾すれば、その矛先は容易に自分にも向く。他人が本音と建前を使い分けることを許せないなら、自分だって浮気なんてするべきじゃない。ある側面でカナは正しいが、正しさを貫き通しながら一人で生きていけるような強さはないという矛盾を抱えている。

ハヤシの同性から見て、そんなカナと付き合い続けているということ自体が本当にすごいなと思った。作中でのハヤシの年齢はわからないけれど、ハヤシを演じた金子大地さんは1996年生まれ。私の一つ年上だ。
なんだかよくわからない花を渡したり、セフレに対して関係を終わりにしようと言って舌の根も乾かないうちに今の彼氏と別れて欲しいと言ったり。正直トイレのシーンはかなりどぎついものがあり、初期の頃は率直に言ってかなり軽薄な印象を受けた。でも、20代後半なんて(21歳のカナからすれば年上のお兄さんなんだろうが)こんなものだよな、とも思う。

でも、ハヤシはカナのことを手放さない。半ば自分のせいとはいえカナが大怪我をすれば献身的に世話をするし、結局のところ家から追い出そうとはしない。たぶん、何度も「別れよう」とか「出て行って」という言葉が脳内をよぎったはずだ。でも、ギリギリのところでそれを口には出さない。後半のハヤシはカナのことを「高め合える存在」だなんてもうたぶん思っていない。でも、帰る場所がないカナを放り出しはしない。

それに、ハヤシは決してカナに手を出さない。当たり前だと思うかもしれないが、あの状態のカナに対して殴り返すことも過度に萎縮することもなく、カナと同じくらいの力加減でプロレスをやり続けることが出来る男はほとんどいないと思う。
カナとハヤシが取っ組み合ってぐるぐる回るシーン、倒れ込んだハヤシがカナにマウントポジションを取る。カナより体が大きく筋力も強いハヤシの暴力性がほんの一瞬顔を出し、すぐさまそんなものがなかったかのようにハヤシはカナと対等に戻る。カナが消耗し切って、心の中の醒めた部分が戻ってくるまで。

鑑賞中、どうしてハヤシがカナのことを追い出さないのだろうとずっと思っていたのだが、これが彼なりの贖罪なのかもしれないな、と思った。

ハヤシとカナは共に生きていけるのか

結局のところ、そう遠くない未来にハヤシとカナは別れるのではないかと思う。カウンセラーや隣人(というか先達?)との出会いでカナは少しだけ大丈夫になってきていて、それと同時にハヤシの心のリソースは尽きてしまうだろう。
それでも、双方にとってこの経験は悪いものではなかった、と思える日がいつか来るだろう、という期待もある。すっきり別れられるかどうかはわからないが……。

ラストシーンの解釈はなかなか自分の中でしっくりくるものがない。「听不懂」はわかりそうでわからない。差し込む夕日の柔らかな光がカナとハヤシの対等な地平を暗示しているような気もして、でも「日本は少子化と貧困で滅ぶからこれからの目標は生存だ」っていうのも変わらなくて、結局なんだかよくわからない。
登場人物の気持ちがわかりすぎるくらいわかって辛かった人間として、最後にわからないものが来たことでようやく映画の世界から解放されたような気もした。

ついでにどこかでホンダも救われていて欲しい。誰かにというわけではなくとも、いつか彼が彼の人生から救われるといいな。


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