トルストイ「アンナ・カレーニナ」第8部を読んで
「アンナ・カレーニナ」は、10年ほど前に読みましたが、その際に最後の部分は再読しようと思っていたので、今回、第8部のうちでも第7章以降の部分だけを読みました。
文庫本のページ数で40ページ弱です。
この第8部は、第7部でアンナをめぐる物語が彼女の死によって終結した後、もうひとつのリョーヴィンの物語の終結部分で、この小説の最後となります。
「アンナ・カレーニナ」は、アンナとリョーヴィンの物語が並走して描かれており、テーマが分裂しているとの批判が一部であるようですが、わたしは本質的なテーマは統一していると思います。
再読したこの箇所は、リョーヴィンが信仰や人生への疑問に対する苦しみとその救いへ至る道が描かれています。
以下に、重要と思われる個所を断片になりますが、引用します。
(光文社古典新訳文庫「アンナ・カレーニナ4」第8部から)
「自分が何者か、なぜここにいるのかを知らないで、生きていくのは不可能だ。おれはそれを知ることができないから、したがって生きていくこともできない」リョーヴィンは自分に向かって言った。(第8章-リョーヴィンの述懐)
「いやそれはただ、つまり人間が違うんですよ。ある人間は自分の欲ばかりにとらわれて生きている、たとえばあのミチューハみたいに、自分の腹を肥やすばかりですが、 フォカーヌィチ のほうは正しい年寄りですよ。あの人は魂のために生きています。神様のことを覚えているんですよ」
「神様のを覚えているって、どういうことだ?どうすれば魂ために生きていけるんだ?」
リョーヴィンはほとんど叫びのような声をあげた。
「わかりきったことですよ。正しく神様の教えどおりに生きることです。人はいろいろですがね。でもたとえば旦那さまだって、人を傷つけるようなことはなさらないじゃないですか・・・・・」(第11章-脱穀係フョードルとリョーヴィンの会話)
~われわれは皆、何のために生きるべきか、何が正しいのかというこの一事では同意しているのだ。おれはすべての人たちとともにただひとつの確固とした、疑いようのない、明確な認識を持っていて、しかもその認識は理性によっては説明することができない。それは理性の外部にあり、何の原因もなければ何の結果もないのだ。
もしも善に原因があるならば、もはやそれは善ではないし、もしも善に結果が、褒美が伴うならば、それもまた善ではない。つまり、善は因果の連鎖の外にあるのだ。
しかもその善をおれは知っているし、われわれはすべて知っているのだ。(第12章-リョーヴィンの述懐)
リョーヴィンの苦悩と救いを要約して表現したいのですが、わたしの力量ではそれが叶わないのが残念です。全文を引用しなければならないような難しさを感じます。
これらの文章を読みますと、リョーヴィンの姿とトルストイ自身の姿とが重なります。
とりわけ、82歳で家出をしてそのまま駅で死亡してしまったトルストイの痛ましい姿と心情が、わたしの胸に迫ります。
アンナの死とリョーヴィンの生が交錯して、この小説の結末となります。
この小説は、わたしにとって解釈など不要です。
ただただ、この「重さ」をしっかりと受け止めるしかありません。