#不思議系小説 Atrapamoscas

庭の片隅の日なたで
ハエトリソウが歌い出す
大きく口を開けて
小さな体を揺らして
細い茎に不釣り合いな
大きな口を開けて
小さな声を聴かせて
じっと見つめていると
今にも喋り出しそうだ
モウセンゴケの玉粒が
水を浴びてキラキラと
乱反射する
その一粒一粒に閉じ込めた
違う未来と世界の自分が
一斉にこっちを見つめてる
全部の自分と目が合って
ハエトリソウの歌が
いつの間にか止んでいる
全部の自分と目が合って
ハエトリソウの前で
いつの間にか病んでいる

 目が覚めるとベッドの上にいた。大きなダブルベッド、少しかび臭いエアコンの風、見慣れた部屋の赤い壁紙、ここはよく使うラブホテル。203号室。ベッドには顔見知りの男。さっきまで飲み歩いて、そしてお金をもらってセックスをした。私の事を好きだ、好きだ、可愛いよと言いながら彼は果てた。結婚していて子供もいるのに
 私はいつも独りだったし、仕事をしても恋愛をしても上手く行かなくて、いつの間にかこんなことまでするようになっていた。ネットで知り合った彼と会うのは3度目でセックスをするのは2度目だった。本当に私の事をどう思っているかなんて、どうでもいい。お金をもらっただけの事はした。お尻が少し切れていて痛い。でも、そんな傷も痛みも、すっかりずたずたになったこの左腕や薬の副作用と不摂生で太ってしまった体に比べたらなんと言うこともないのだろう。自分の体にも、心にも諦めがついたはずなのに未来だけが諦めきれずに揺れている。そんな感じの毎日にすら薄い靄がかかって、半透明のごくごく薄いのに何故かやたらと頑丈な膜が張られているように見える。部屋の明かりは消さないまま、二人とも眠ってしまったようだった。明るいままなのは、彼が私とのセックスを絶え間なく手元とテーブルに置いたスマホで撮影したからだ。いやらしい場所に迫り、卑猥なポーズをとり、一部始終を収めたデータがこの中に入っている。私はそのスマホを踏まないようにベッドから立ち上がったところで、不意に物凄いめまいに襲われた。くらっ、とするどころの話じゃなく、部屋全体が
 ゆわん
 と揺らいだような感覚だった。おっとっと、とよろめいてベッドに手をつく。大きくたわんだスプリングの感触。あっ、起こしちゃうかな、と思って見ると彼がいなかった。あれ、トイレかな……? とトイレと風呂がある方を見ると明かりが消えている
 帰ったか……?
 ここは確かに途中退室も出来るし、こっちも金は貰っている。先に出るならその時にお金を払う必要もあるので私は別に構わない。とりあえず顔でも洗って、もう一度寝直そうかな。そう思って洗面所のドアを開けたら、何故か廊下につながってた。それもこのホテルの廊下じゃない。もっと暗くてボロボロで、どうにも切ない雰囲気のする場所だ。どこだろこれ……そのまま帰ろうと思っても、もうドアが無くなっててずっと向こうまで暗闇が続いているだけ。この先に行くしかないのか、洞窟のような廊下をぺたぺたと歩き出すと光が見える。出口かな、と思えばまたドア。それもドアノブから扉から錆びついて、ところどころ赤茶でボロボロになった鉄製の重いドア。ぐっと力を入れないと動かない、そのドアノブをギギギギ、ざりざりっと動かすとなんとか開いた。ギィィィ、ガチャっと嫌な音が大きく響く。その先の廊下は少しだけ明るくて、よく見ると消えかけのろうそくが点々と灯されて並んでいる。他に見るべきものもない。薄暗い廊下は灰色のレンガ造りで、明かりの届かないところが青白く浮かび上がってくるくらいには目が慣れてきていた。曲がりくねった廊下の先が見えない。ただろうそくの明かりを頼りに進むだけ。いつまで歩くんだろう、どこまで続くんだろう、もう嫌だな、引き返したい。戻りたい。どうして歩き始めちゃったんだろう、あの人はどうしてベッドからいなくなってたんだろう。寝ていれば良かった。小さな後悔が生まれると芋づる式にあらゆる事を後悔し始めるのは私の悪いクセだとわかっているけど、止まらない。あの時どうして、あの人はどうして、私なんか、私なんか、生まれてきたから……生まれてこなければよかった。体を傷つけることも、安く売ることも、それでまた傷を増やすこともなかったのに。

君のずたずたになった手首を歩いてく。
ケロイドと深い溝
君がずたずたになった手首で歩いてく
血も涙も枯れてる
薬も酒も効かない
生きてる意味もわからない
ただ深い傷跡と
望みもしない朝が
今日も明日も残っているだけ
君がずたずたになった手首を歩いてく
ケロイドと深い溝
君のずたずたになった手首を歩いてく

 どれぐらい歩いただろう。薄暗い壁や天井にうつる自分の泣き顔や、廊下の向こうから脳の奥まで響く泣き声、血の味がする思い出と生臭い記憶。あらゆる嫌な記憶がわずかに残った楽しいこと、大切な思い出まで飲み込んで腐らせてしまう。まるでヘドロの海を埋め立てて築き上げた摩天楼の島が崩れて、ヘドロまみれの摩天楼の残骸になってしまってゆくみたいに。もう嫌だ、歩きたくない、これが夢なら覚めて欲しくもない。早く楽に殺して欲しい、明日も明後日もどうでもいい、どうせ意味もなく目が覚めて、またお酒と薬に頼って男に買われるだけならば。どうでもいい。だから早く終わらせて欲しい。泣きながら、叫びながら、わーわー喚いて歩き続けた。私が何をしたの!? 私の何が悪かったの!? 仕方がないじゃん、こうするしかなかったんだもん、こうなるってわかってたけど、でも、でも!!
 ごつん。
 急に音がして、おデコに鈍い痛みが走った。手をかざすとドアがあった。良かった、とりあえず出られる! そう思って、夢中でドアノブにかじりついて、ガチャッッとひねった。

 ザーーっと遠くで心地よい音が鳴っている。吹き抜ける風にほんのり潮の香りが混じっている。どこかで雲雀が鳴いている。ああ、これは潮騒なんだ、と気が付いたときには、快晴の彼方へその言葉ごと飛んでいって消えてしまう。
 そのぐらい静かで満ち足りた、青い海の見える晴天の丘に私は立っていた。白い可愛いワンピースの裾が風に揺れてふわりと舞い上がる。麦わら帽子が飛んで行く。今までの私には決して似合わない、似合うと思ったことも、着てみようと思ったこともない格好をしていた。裸足のままで駆け出したいくらい気分がいい。こんな気持ちは何年ぶりだろう、ずいぶん久しぶりだ。生まれてこの方初めてかもしれない。このままずっと気持ちがよければいいのにな。

 そんな夢を見ている私を窓の外から見ている。ベッドに横になったままずっと幻を見ている。現実の世界で目を開けていることも出来ず、壁に貼った古い列車のポスターから走り出した特急ゆうづるに乗ってトスカーナの伯爵に会いに行く。行き交う人々はみんな、窓の中の私のことなど気にも留めない。そんなところにこんな私が居ることすら知らずに通り過ぎてゆく。私は夢を見て、そんな外の世界すら通り過ぎて心の内側へ、内側へ走り出してゆく。
 嫌なことも辛いことも終着駅に着くまでに消えてしまえばいい。線路の上に置き去りにして、ずっと泣いてるあの子はだあれ? 子供の頃の私かな。でも置いて行くの。私は刻一刻老いて行くの。だから子供の手を引っ張って、足を引っ張られて、それでも歯を食いしばって生きる必要も義務も義理もないの。私は私の線路を特急ゆうづるに乗って走り抜けるの。踏み切りに飛び込もうと思ったこともあった、駅のホームで飛び込もうと思ったこともあった。だけど今は違うの。飛び込むはずの特急列車に飛び乗って、いつかの私を置き去りにして、いつもの私を脱ぎ捨てて、胸の奥へ、心の先へ、精神の終着駅に向かっているの。私は、もうすぐ。私は、もうすぐ……私は、もうすぐ? どうなってしまうんだろう。車内の電光掲示板に私の心の言葉が文字になって浮かんでは、右から左へ流れて行く。何を思っても同じだ、何を考えても文字になって流れてくる。どうしよう、もっと嫌な事を考えてしまいそう。また辛い記憶を思い出してしまう。黙らなきゃ、喉を絞り込んで、胸を締め付けて、心を黙らせなきゃ、下を向いて、電光掲示板なんて見ない、心に言葉なんてない、誰も私の事なんて覚えてない!!
 そう、誰も見ていない。私は特急列車になんか乗ってない。ただ今日も家の中で部屋の中でベッドの上で、現実からの逃避行を試みては半端に残った理性と若く勤勉だったあの頃が足枷になって死ぬことも出来ずに生き損なっているだけ。今日も手足が腐ったり、首から上がゴロンともげたり、背中が割れて小さな羽虫がワーっと飛び出したりもせず。ただ汗と垢が溜まって香ばしく酸っぱい臭いが増してゆくだけ。お風呂にも入ってない、髪の毛も洗ってない、もちろん腋やあそこも洗ってないし伸び放題で、服の内側から物凄い臭いが駆け上がってくる。そんなものが唯一の、生きて代謝をしている証。私が生きることで生産されているのは、この部屋の片隅をすえた臭いにするほどの分泌物だけ。本を読んだり、買い物をしたり、スマホで通話をしたり、そんな気力もとうに失せた。私が作ったグループからはみんなとっくに居なくなって、買った本は山積みになって、積んだ本に埃が積もっている。そしてそれを払う気力もない。きっと私の頭にも、髪の毛にも、肩にも、埃が積もっているのだろう。

 開けていたと思っていた前途が突然閉じた。怠惰と焦燥の葉っぱで挟まれてだんだん溶けてゆくのは不思議と気持ちが良かった。そして皮膚が溶け、肉が溶け、骨まで見え出したところで気が付いた。ああ、食われてしまっていたんだ。この無残な現実、見事なまでに堕落しきった現在に代償なんて払ってない。自分で自分を壊していったんだ。だから痛みも感じないし、イヤでも怖くもなかったんだ。
 ああ、葉っぱが閉じて行く。トゲとトゲが合わさって、やがてがっちり絡まって。ぺちゃんこになった葉っぱのなかで私はきっと骨すら溶けてなくなるんだ。やっと消える。やっと消えられる。やっと、やっと。

庭の片隅の日なたで
ハエトリソウが歌い出す
大きく口を開けて
小さな体を揺らして
細い茎に不釣り合いな
大きな口を開けて
小さな声を聴かせて
じっと見つめていると
今にも喋り出しそうだ
モウセンゴケの玉粒が
水を浴びてキラキラと
乱反射する
その一粒一粒に閉じ込めた
違う未来と世界の自分が
一斉にこっちを見つめてる
全部の自分と目が合って
ハエトリソウの歌が
いつの間にか止んでいる
全部の自分と目が合って
ハエトリソウの前で
いつの間にか病んでいる

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