海岸線(本日も異常なし)

 海だ。よく晴れた今朝も目の前には広大な海が広がっている。まばゆい太陽光をきらきらと反射させた大きなうねりが波濤となって濃い藍色をした水面をぐわっと持ち上げ、やがて左右からどどどどうっと崩れながら白く乾いた砂浜を洗ってゆく。遠くどこまでも続くこの砂浜と遮るもののない青空が、水平線を彼方に揺らす青い青い海と見事に調和している。
「本日も異常なし」
 わたくしは誰に言うでもなくつぶやいた。この広い砂浜に、わたくしはずっと一人きりだ。身の回りに残っているのは古い四角張った建物と、軍から支給されたり流れ着いたものを拾った衣類、そしてYH3型らせん構造式半永久動力による生活には困らない程度の設備だけ。食事は摂らなくても平気だ……わたくしの身体はそういう風にできているらしい。毎日毎日、海と空と風の鳴る音だけがわたくしの高感度拡大聴覚集積回路でくるくると処理されて脳髄に送り込まれる。ただそれの繰り返し。
 話す人も聞こえる声もなく過ごしてきた。気の遠くなるような、長い長い間。

 空は青い。海も青い。ある時代までこれは当たり前の事だったという。海に空に、野山や森にも、あらゆる場所に生き物があふれ、共に暮らしていたらしい。
 世界を二つに分けた大戦争の真っ只中に生まれたわたくしは、培養カプセルから取り出されてすぐに教育訓練を受け、物心ついた時には武器を持ってこの海の向こう側を四六時中睨みつけていた。それがわたくしの存在理由であり、わたくしはそのために生み出された。だから、そんな時代の事は教わった限りでしか知らない。来る日も来る日も爆炎と銃弾が何もかも焼き尽くし、穴だらけにしていった。建物や生き物だけではない。もはやわたくしの記憶は恐ろしく断片的で、時々まったく思いもよらぬ記憶が蘇ったりもすれば、何かとても大事なことを忘れているようで、ひどくもどかしい時もある。どうやらわたくしの記憶も穴だらけになってしまったらしい。わたくしは時々考える。長い年月の果てに、わたくしの頭の中には考えるという現象が起こるようになった。それまでは、海岸線の彼方を見て、何も異常がなければそれでよかった。だが、今は違う。何もない、それこそが異常なのか、それとも青い空と海だけが広がるこんな毎日を、平和な時代と呼ぶのだろうか。わたくしは恐ろしい。もしも、平和というものがこれほど孤独で、空虚な物なのだとしたら……?
 来る日も来る日も敵に怯え、戦いに備え続けて居た毎日の方が、余程気分が落ち着いていたような気がする。
 長い長い、気の遠くなるような年月は、わたくしに少しずつ、確かな変化をもたらした。わたくしは培養液での均一成長プログラムやその後の教育訓練では知ることが無かった様々な感覚を、ここにずっと立ち続けて居ることで習得したようだった。孤独、空虚、平和、存在、生命、それらはずっと、わたくしの脳髄から欠け落ちていたものだった。だが、ここにはそれがあふれている……たったひとつ、わたくし以外の生命を除いては。

 目の前で寄せては返す海に、生き物はいない。海を青く染める大空にも、この砂浜をどれだけ探し回っても、わたくし以外に生きている命は見つからないだろう。いや、正確にはこのわたくしも、生命というにはいびつ過ぎるのかもしれない。
 
 北朝軍(北側)と南方軍(南側)の戦争は、一体何百年続いていたのだろうか。誰にもそんな過去の事はわからない。もう、誰もそれを正確に知る者も居ないほど昔の話だ。初めは両国間の慢性的な貿易摩擦と、貧富の格差による散発的な衝突がきっかけだった。そんな状況が年々エスカレートし、双方の国境近辺で軍民入り乱れての銃撃戦や拉致・暴動・略奪などが起こるようになった。
 やがて南北が同日同時刻に正式な宣戦布告を宣言したときには、すでに各地でゲリラ戦が激化していた。戦況は泥沼化し、両軍は密かに開発・実験を重ねていた超化学兵器や生物兵器、果ては人造人間や改造生物、遺伝子改良兵なども投入し、戦局は混沌を極めていった。双方の最高司令者及び幹部や政治家たちは自らに改造手術を施して何千年もの寿命を手にし、自らの権力を絶対のものとした。しかし彼らの命と戦争は、その長さと失われたものの大きさとは裏腹に呆気ない終焉を迎える。

 ある日。北側の将軍ユ・イムは恐るべき指令を出した。その全容は未だに不明で、使われた兵器も、その開発者や実際に投下した者も、どのような作戦であったかも明らかにされていない。しかしその兵器によってこの大国を南北に分けていた広大な海のすべてが、重厚な泥濘濃脂粘膜層の下に沈んだ。重い灰色の表面に虹色の膜がぬらぬらと光る泥のような油の塊に飲み込まれた船舶や戦艦は敵味方を問わず動きを封じられ、互いの敵に空から狙い撃ちにされて壊滅した。さらにはこの海に暮らす海洋生物の99.9999%が絶滅したとされている。

 対する南側からの報復は光化学赤色煤煙瓦斯を北側の空にまき散らすことだったが、これが仇となった。光化学赤色煤煙瓦斯は少しでも吸い込んだら最後、呼吸器と内臓粘膜を内側から焼き尽くされて即刻絶命するという代物だ。空中に広がった瓦斯は北側の空を覆い尽くし、ユ・イム将軍を含む北側の人民を死滅させた。だがそれによって北高南低型放射気流が発生、光化学煤煙瓦斯は南側の空をも蝕んだ。あっという間に瓦斯に覆われた南方軍の指導者ホッ・ケン・ミンを含む南側の人間はこれにより死に絶えた。ちなみに改造手術を受けている者たちも不老不死の肉体を手に入れたわけではない。早い話やたらと長生きができるだけで、暴力を受ければ死ぬのだ。
 
 人類がほとんど滅亡したのち、操る者の居なくなった生物兵器・改造生物たちは瞬く間に増殖しやがて独自の進化を遂げた。際限なく続くゆがんだ生存競争の中で幾度となく突然変異と淘汰が起き、その中で海洋汚染の原因となり半永久的に浄化不可能と言われた泥濘濃脂粘膜層の核となる濃縮滞留脂泥を食べて成長する重化学軟体生物の群れと、空を覆い尽くした瓦斯を吸収し新鮮な空気を排出するよう進化を遂げた風圧膨張生物群、通称フーセン鳥の突然変異種たちがそれぞれ大繁殖を遂げた。人類が残した死の世界で、ひたすら汚れた海と空を洗い続けた生き物たちは、やがて餌を食い尽くして滅びた。美しい、無垢な海と空を残して。

 わたくしはその間、ずっと生きてきた。戦火からも、恐ろしい赤い瓦斯からも辛うじて逃れることが出来、命だけは助かった。他の生き残ったごくわずかな人類も、この大陸のどこかで細々と暮らしているらしい。だが……わたくしは誰にも会ったことがない。会ってみたいと思ったこともなかった。しかしそれでも、ある朝この海と空が青く輝いているのを見た時は、本当に奇跡が起こったのだと思った。きれいだ、という気持ちを初めて味わった。誰かにこの美しさを伝えたい、と……強く思った。ああそうだ、孤独や空虚や不安は、こんなにも美しいものだったのだ。また一つ覚えたな。わたくしはまた一つ覚えた。
 建物を出ると、涼やかな風が身体をすり抜けていった。真後ろには宿舎と、その隣には高さ15メートルほどの物見やぐらが残されている。終戦後の海面上昇期には、この監視塔も丸々海底に沈んでしまったものだ。わたくしは身の丈が40メートルあるから、少しぐらい海の水が増えても平気だった。

 すべてが終わったこの海岸で、わたくしは明日もこうして生きるだろう。今日も、明日も、明後日も、きっとずっと、本日も異常なし、とつぶやくだろう。
 わタくしはこの海岸線で、北側ヲ監視するために作られた沿岸監視用長命U型と呼バレる遺伝子改良兵士だから、だから務めを果たさなくてはならない。それ以外に、わたクシガ生きる理由はない。この美しく恐ろしい平和な時間ががガ、今日から明日へと続いていく限り。
「本日モ異常ナシ」
 おや? さっきまでと少し声が違う。ガスに焼かれた喉が不調をきたしたのだろう。替えの喉はあっただろうか。
「本ン日モイ常ナし」
 わたくしは三度つぶやいて、海岸線を見渡した。海も空もきれいだ。

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