2024年1月10日 「ポリコレ」

「炎上する/しない」で言動をコントロールするというのは、ある一人を徹底的に傷つける可能性にあまりに無自覚というか、実体のない大きな主語に判断をゆだねて考えることをサボっているので肝心の自身の言動は無自覚のうちに暴力性を帯びるということに注意がいかない。この、存在しない先生をたとえば「ポリコレ」と名付けて茶化す態度は具体的な個人を人間扱いできない、まず自分自身を人間扱いできていない態度で、僕はこれがものすごい怖い。

柿内正午『プルーストを読む生活』、p.440-441

しかしこの人たちがこのようになってしまった原因や理由を考えなくてはいけない、こういう人も助けられるべきだが、そうなっていない公的扶助にはどんな構造があるだろうか、と繋げていた。

その通りだと思う。私は基本的に「ポリコレ」という言葉を括弧なしで使って「ポリコレ」批判をする人の言うことを信用できないのだが、それはやはり色々なものに無自覚というか、世界を「こちら」と「あちら」に分けて「あちら」を徹底的に他者化するその狭量な姿勢に対する怒りがあるからだと思う。たとえばなんとなく韓国を「反日」などと呼んで憚らないような一部の日本人たちはナショナリズムの立場から韓国の外交政策や対日政策が気に入らないだけで、全韓国国民と会って話して「嫌い」と言っているわけではないどころかおそらく一人の韓国人の知人もいないのである。それどころかまたある一部の人々は政府与党を批判する人を、同じ日本人にも関わらず「反日」などと言い募る。理屈で考えればそんなわけなくて、全てを含んで日本なのであるのだが、どうやらこういうことを言う人にとっての「日本」は普通に考えたときの日本とは全然違うのである。ちょっと話が逸れてきたが、そういうところに見られる相手への解像度の低さ、自分と相手の立場が入れ替わるかもしれないみたいなことを露ほども考えない想像力のなさが問題なのだと思う。ポリコレの例で言えば、ディズニープリンセスに有色人種が増えていることをただ「ポリコレに配慮」などと言っているだけの人たちは自分が有色人種であることを忘れているとしか思えない。そういう感じのことを感じた。

以下はこれまでの内容とは関係ないけどなるほどと思った引用。いろいろこねくり回せば繋げることもできそうだが。

私たちは生まれながらにしてある真理を心の中に持っていると言う人は、しばしば自分が信じていることを人に押しつけるために、それが生得原理であることを主張しようとします。これは、論のすり替えであり、人を思考停止に陥らせるための策略です。ロックは、人間の自由な思考を保全するため、「生得原理」説や「生得観念」説を、なんとしても退けたかったのです。

冨田恭彦『ロック入門講義』、p.125

以下、映画感想。昨日今日と続けてA24の特集上映で『ショーイング・アップ』と『エターナル・ドーター』を観た。前者は今注目の監督でアメリカインディーズ映画の至宝とまで呼ばれるケリー・ライカート監督の映画。なんとミニマルで繊細な映画かしら、と観てしばらく経ってからうっとりした。言ってしまえばあるあるの映画なのだけれど、それによって一人の現代人の周囲との関係を浮き彫りにしてしかも希望の光も見せる、そういうすごい映画だった。後者はジョアンナ・ホッグ監督の映画で、製作総指揮がマーティン・スコセッシ。スコセッシっぽさはあんまりないけれど。ストーリー上の企みは割とよくあるやつで見え見えなんだけれど、その描き方がかなり美しくて上品な不気味さで、映像のリズムも良くて、オチの付け方がとても良い。この企みでこういうことを描き出そうとしたことってないんじゃないかしら。ティルダ・スウィントンが母と娘を一人二役で演じていて、ティルダ様の演技を愛でるという意味でも楽しかった。

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