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ロード・ダンセイニ × 仏教 ~ファンタジー作家と東洋の出会い~

皆様、ごきげんよう。弾青娥だん せいがです。

長い歴史を有するアイルランドの貴族でありながら、戯曲家、ファンタジー作家、詩人として活躍したロード・ダンセイニが東洋文化の影響を強く受けていると、以下の記事で詳述いたしました。

今回も、ロード・ダンセイニ(以下、特筆ない限りダンセイニ)の作品における東洋の影響をピックアップする記事になります。とりわけ仏教的な影響にフォーカスします。

ダンセイニが若い頃に起こった出来事を取り上げてから、本題に入りたく思います。

※以下の記事本文内では、人物名を敬称略にしています。



アイルランドでの仏像発掘

まず、1878年の7月に生まれたダンセイニの若年期にアイルランドであった出来事についてです。学術書Buddhism and Irelandによると、1886年にミーズ県のバルトラスナ(Baltrasna)という地域の沼深くから全長1フィートの銅の仏像が発掘されます。ダンセイニ男爵の一族の居城(ダンセイニ城)は同県に位置していますが、バルトラスナとの距離は約8キロです。

濃い緑で示された地域がアイルランドのミーズ県。

この仏像は、ルイス・キャロルに少女時代の写真を撮られたアグネス・グレース・ウェルド(父が王立学会の司書でした)の手に渡り、1898年にはブリストルで展示されます。しかし、現在の所在については不明となっています。

この一連の出来事がダンセイニにとって、最初の仏教との接触になった可能性もあるでしょう。


ダンセイニ作品に現れる仏教的影響

ロード・ダンセイニ

ここから本題である、ダンセイニの作品に見える仏教的影響について説明して参ります。4例を紹介いたします。


「時の国で」

ダンセイニの初期作品には『ペガーナの神々』、『時と神々』のように多神教の世界を思わせるものが多いです。なかでも、後者の『時と神々』に収録された「時の国で」という物語が要注目です。以下がこの話の概要です。


アラッタという国を統べる王になったカルニス・ゾー。
王国内の廃れた神殿を訪れて、なぜ打ち捨てられているのかを尋ねる。
王の顧問団は〈時〉の仕業であると答える。
次にカルニス・ゾーは、やつれた体をした老人に出会う。
宮廷内で見たことのない老人に、何ゆえに年老いたのかを尋ねる。
王は〈時〉の仕業であると耳にする。
続いてカルニス・ゾーは葬儀用の馬車で運ばれる遺体を目にする。
王は顧問団に死について尋ねると、
神々のしもべである〈時〉から与えられるものだと答えが返る。
やがて王は、老齢と病の原因である〈時〉を征服すると誓うが……。

この物語は、先述の学術書の内容を拝借すると、シッダールタの「四門出遊」と類似しています。この伝説において、シャカ族の王子シッダールタは、東西南北の門から王城の外へ出かけ、老人、病人、死者、修行者との出会いを通じて人間の生の苦しみを悟ると、出家を決意します。

出家前の釈迦が苦しみにあえぐ人々を目にする「四門出遊」を描いた絵。

結末は違えど、生の苦しみを知らぬ王族の人間が外の世界で苦しみを知る……という面で、ダンセイニの「時の国で」と釈迦の「四門出遊」伝説は似ていると言えます。

この「四門出遊」伝説は、東洋学者のエドウィン・アーノルドが1879年に出版した英詩『アジアの光(Light of Asia)』の第3章にて、シッダールタが病、老い、死に苦しむ人々を目にするという形で紹介されています。この詩は、50万部から100万部の売り上げを記録し、西洋に仏教を広く知らせることになりました。英国では、30年の間におよそ50版を重ねました。


「ヤーニスの人々」

こちらも『時と神々』所収の物語です。その冒頭を河出文庫の『時と神々の物語』から引用しましょう。

 ヤーニスの人々は、ヤーニ・ザイが右の手を挙げるまで何も始まらなかったと思っている。彼らが云うには、ヤーニ・ザイは人間の姿をしているが、ずっと大きく、そして岩のようなものでできている。ヤーニ・ザイが右手を挙げたとき、空という名で呼んでいる丸天井ドームの下を彷徨う岩がことごとくヤーニ・ザイの周りに集まった。

中野善夫 中村融 安野玲 吉村満美子(訳)『時と神々の物語』179ページ

ここでは、仏像のポーズを思わせるヤーニ・ザイという神が右手を挙げたポーズで登場しています。シドニー・サイムによる挿絵もあります(左上に描かれたのがヤーニ・ザイです)。『驚異の書』以外ではダンセイニの文章ができた後にサイムが絵を完成させているため、ヤーニ・ザイの描写はダンセイニの文に基づいていることになります。

The Departure of Hothrun Dath by Sidney Sime


「山の神々」

3例目はダンセイニの代表的な戯曲に数えられる「山の神々」(1912年)です。神々のふりをして人々から食べ物をだまし取る乞食たちの迎える壮絶なエンディングが痛快な作品です。この劇において、アグマアという乞食の一人の次のような発言により、右手を挙げる神の彫刻が言及されます。

アグマア その神々は緑の硬玉だ。両足をあぐらかいで、右の腕を左の手に載せて、右の人差指で上の方を指して坐っている。われわれは服装みなりを変えて、マルマの方角から市に入り、われわれがその神々だといおう。あの神々の通りにわれわれも七人でなければならない。すわる時にはあの神々のとおりにあぐらをかいて、右の手を上に挙げて坐るのだ。

沖積舎 松村みね子(訳)『ダンセイニ戯曲集』95ページ

この作品を含むダンセイニの戯曲は戦前と戦後から間もない日本で上演されました。妖精研究のパイオニア、英文学者として活躍する井村君江は、演劇部員であった学生時代における「山の神々」の芝居のことを回顧しています。

四半世紀ほど前のこと、十七歳の私は、宇都宮の女学校の舞台で、松村みね子訳のダンセイニの戯曲を、演じていた。……私は「山の神々」(大正七年「心の花」掲載)の乞食役であった。……当時の女学生の私には、全く分かっていなかった。でもその時は夢中で、ぼろぼろの乞食の着物の下に、どうやって緑の服を着て観客にわからせようか、最後に石の神々になったとき、緑の石の神々のポーズ、即ち、右手の指で天を指して座るのは、どう工夫するかなど、いろいろ問題があった。

……女学校生の私は神々のポーズを考える時、「両足であぐらをかき、右腕を左の手に乗せ、右の人差指で、上の方を指す」というのは、きっと「天上、天下、唯我独尊」の「天下」(左指で地面を指す)がないポーズかと考えていたが、でもこれは花祭りに甘茶をかけていたお釈迦様のポーズで、この立像は東洋の仏教だ、と思ったのを覚えている。

井村君江「ダンセイニ卿の思い出と現在」
『PEGANA LOST VOL. 14』(2014年)8、10ページ


『賢女の呪い』

最後の例は、1933年の小説『賢女の呪い(The Curse of the Wise Woman)』です。キリスト教の信仰と、ケルト伝統の常若の国ティル・ナ・ノーグ信仰の対立が見られるこの小説の第19章の終盤に、以下のような場面描写が確認できます。

 二人が話している間に、一羽、また一羽とタシギが鳴き声をあげた。空から春が一気に押し寄せて来るようであった。私は日本風の寺で見た、太鼓〔drums〕とハープ〔harps〕と笛〔flutes〕を持つ小さな神々の彫刻を思い出す。神々は雲間を飛翔していたが、私が今耳にしている、この春の到来を告げる不思議な鳴き声が、地球の反対側の聖人か詩人の感性を刺激し、富士山上空を飛翔する神々の光景を脳裏に結ばせたのではないかと思われるのだ。

稲垣博(訳)『賢女の呪い』204ページ
〔〕内の項目は私による追記。

運命か偶然かは分かりませんが、ダンセイニの描く世界が仏教の極楽浄土の教えに最接近するのが『賢女の呪い』のこの場面です。キリスト教の観点からすれば異教と捉えられるため、ケルト伝統の信仰側に力添えをする文章となっています。

複数の太鼓、ハープ(琴)、笛を持った仏教の群像の例で言うと、ダンセイニの「小さな神々の彫刻」の描写は、京都・宇治の平等院鳳凰堂の壁面に見られる雲中供養菩薩像にそっくりです。

平等院鳳凰堂

また、仏教絵画で言えば、和歌山・高野山有志八幡講蔵の「阿弥陀聖衆来迎図」にも似ています。

有志八幡講十八箇院蔵「阿弥陀聖衆来迎図」

「富士山上空を飛翔する神々の光景」まで考慮に入れると、義賢という江戸時代の画家が描いた「阿弥陀如来二十五菩薩来迎図」とまさに瓜二つです。

義賢「阿弥陀如来二十五菩薩来迎図」
筆者は龍谷大学深草図書館での展覧会で実物(大変色鮮やかでした)を目にしました。

こうした仏像や絵画の実例をどのようにダンセイニが知ったかを未だに特定できていません。とはいえ、例えば高野山の「阿弥陀聖衆来迎図」は少なくとも次の書籍3冊に掲載されています。

  • Buddhist Art in Its Relation to Buddhist Ideals姉崎正治、1915年)

  • Handbook of the Old Shrines and Temples and Their Treasures in Japan(文部省宗教局、1920年)

  • Histoire de l'art du Japon(巴里万国博覧会臨時博覧会事務局、1900年)

このような紹介例がダンセイニの目に届いたのではないか、と推測しています。あるいは、ダンセイニの東洋に対する関心が自ずと仏教の浄土思想に近い場面描写を実現させたのかもしれません。しかし、納得のいく説にまだ行き着いていないので、さらなる研究に励みたいです。

某年の夏、平等院にてダンセイニの『賢女の呪い』とともに撮影。


最後に

ダンセイニの作品における仏教的影響を見てきましたが、どれか一つでも好奇心をそそるものがあれば幸いです。(筆者はこのような研究をしていくうちに、仏教美術、特に来迎図といった極楽浄土にまつわる美術の沼にはまることになりました。)

「ダンセイニと仏教」という一見、摩訶不思議な組み合わせの記事はこの辺で終わりにしますが、おまけとしてワシントン・ポストによる『エルフランドの王女』の紹介記事のリンクを貼ります。エルフランドの国王が「half-Zeus, half-Buddha(半ばゼウス、半ば仏陀)」だと形容されています。

最後まで読んで下さった方々に感謝申し上げます。


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