【映画感想】衣笠貞之助 『狂つた一頁』(1926年)
皆様、ごきげんよう。弾青娥です。
数か月ほど見ようか見まいかと迷った映画がございました。ストーリーなどをあらかじめ読んで知っていた衣笠貞之助の『狂つた一頁』です。
画像検索でヒットする何だか不気味な写真に恐怖を覚えつつ、また興味を抱きつつ、「いつか近いうちに観よう」と思いました。ホラー映画を見た後にインド映画の『バーフバリ』を見れば記憶がリフレッシュされるという保険的かつ励まし的な某ツイートを拝見してから、その「いつか近いうち」を過去にする決心がつき、『狂つた一頁』の鑑賞を実行しました。
今回は、YouTubeにアップされていた、以下のものを通じて鑑賞しました。そして以下から、鑑賞して思ったことを思いつくままに、衝動的に書き記します。
映画の概要などは、Wikipediaなどにお任せさせていただきます。率直に鑑賞して一番強く印象に残ったのは音楽です。
プログレッシブ・ロックやヘヴィメタル音楽に耳が最も慣れている私にとって、『狂つた一頁』の音楽はルー・リードの『無限大の幻覚(Metal Machine Music)』(1975年)や、キング・クリムゾンのアルバム『太陽と戦慄』の、ギターやベースが音の洪水を浴びせる中でも激烈なパーカッションが際立つ1曲目「太陽と戦慄 パートI」(1973年)を、レッド・ツェッペリンの凄腕ドラマーのジョン・ボーナムの「モービー・ディック」(1969年)のドラムソロをも彷彿とさせ、観ている間、退屈することはありませんでした。(怖いシーンが来るのではないかという、少し過度な警戒心を有していたことで緊張があったせいもありますが。)
ルー・リード「無限大の幻覚」(音量注意です。)
キング・クリムゾン「太陽と戦慄 パートI」(こちらも音量注意です。)
レッド・ツェッペリン「モービー・ディック(ライブ版)」
(映画の中盤に差し掛かるころに)大瀑布のように降り注ぐドラムサウンドが炸裂する前と、映画の終盤とでは、日本らしさも感じられる賑やかな音楽も聞こえてきます。後者のものは猛烈な激しさもあり、『狂つた一頁』の象徴的な映像ヴィジュアルもあるおかげで、視覚と聴覚の双方を、現代映画では成し得ないような技法で、心地よく錯乱させにきます。
映画は監督の衣笠貞之助によって1971年にニューサウンド版にされているため、音楽はその時に制作されたもののようです。1926年当時のものではないですが、1971年に制作された新たな音楽と考えても、正直なところ古さは覚えませんでした。音楽の前衛性が為せる業です。
映像面では、動く井上正夫を初めて見ることができて少し感慨深かったです。その井上正夫は、『狂つた一頁』からちょうど10年後の『大尉の娘』(私が研究対象にして、推している監督の野淵昶がメガホンをとりました)にも出演しているので、「知っているだけの俳優」でしたが、今回の鑑賞で「演技を見た俳優」になりました。
映像撮影には、これまた野淵昶と『幽霊列車』(1949年)の面で関わった特撮の名匠円谷英二が携わっていると、『狂つた一頁』鑑賞後に知り、驚きました。
映画全体という単位で振り返ってみると、「生きることとは何だ?」という問いを投げかけられる内容でもありました。生の世界と死の世界が、境界線があいまいになりながら、交差していく野淵昶の『怪談牡丹燈籠』の鑑賞を通じても思わされる問いでしたが。
私としては夜――7月22日の23時半頃から観ました――に観ても大丈夫な映画ではございました(怖さよりも、およそ100年前の日本映画の芸術力・表現力に圧倒されました)。が、怖い場面に抵抗感が強い方がもしご覧になるのであれば、明るい時間帯を選ぶようにしてください。
『狂つた一頁』は、取り扱う内容が内容なだけに手放しで褒めるのは難しいものの、前衛的な映像と、それに合うように再現されたエクストリームなッ前衛音楽が見事にコラボレーションを果たした芸術です。前衛的なメタル音楽やプログレッシブ・ロックが好きな方の一部(強調したいポイントなので意図的に太字に致しました)にとっては、とりわけ音響面で快い映画であるとも言えます。
鑑賞する決断を下して実に良かった映画でした。勢いに任せた拙文になったかもしれませんが、ご一読くださった方々に感謝申し上げます。
追記:国立映画アーカイブが『狂つた一頁』の一部の染色版を公開しています。高画質です。映画本編を見てからの鑑賞をおススメします。
また、Amazon Prime Videoでは、高画質で全篇を見られるようですが、音楽は異なるようです。一番最初に提示したYouTubeのリンクのものが、音楽的には最もアピールしていると考えます。