【翻訳】ロード・ダンセイニ 個人印象
皆様、ごきげんよう。弾青娥です。
今回の記事では、アイルランドを代表する作家であるロード・ダンセイニ(1878年~1957年)の人となりを知っていただくべく、そして1878年の7月24日に生まれたこの作家の生誕を祝うべく、アメリカの演劇批評家クレイトン・ハミルトンの随筆Seen On The Stageの翻訳を以下に公開いたします。
※〔〕内の事項は、私が加筆しました。
※戯曲「アルギメネス王」の和訳は松村みね子訳『ダンセイニ戯曲集』から引用しました。
※写真は、私が追加したものです。
ロード・ダンセイニ 個人印象
クレイトン・ハミルトン(著)
弾青娥(訳)
1919年、風の吹きすさぶ10月の夜のこと。広大なイースト・サイド〔ニューヨーク市内の地区〕のロシア系ユダヤ人の居住地区の中心にある466グランド・ストリートの小劇場の前で、雨の降るなか立っていたのは、自らの家系において18代目の男爵にあたるアイルランドの貴族だった。並々ならぬ身長の高さのおかげと、霧雨を防ぐ不恰好な軍人用オーバーコートを身にまとっているおかげで、その人物だと簡単に分かった。道行く数百人(大半が近隣のユダヤ人だった)は、その人物と握手し、ぽんと背中をたたき、ポケットから取り出して堂々と差し出すたくさんの本の遊び紙にサインを書くように求めもした。この丈高の男は異様な事態でも読者をもてなせば、賓客としてもてなされもした。突如、稲光が見え、雷鳴がした。
「クレッシ〔ダンセイニの戯曲「旅宿の一夜」に出てくる神の名前〕からの雷にちがいありません。はるばるインドから来たのです」と、口にしたのはロード・ダンセイニである。
このアイルランドの貴族もダンセイニ城から、そしてメシヌ高地からはるばるやって来た。その来訪には明確な目的があり、それは作者自身がこれまでに見たことのなかった2篇の戯曲(「女王の敵」と「旅宿の一夜」)を見るということと、数多くの評論家がそういった劇に対して騒ぎ立てている訳を把握することだった。このような時に限って、私はネイバーフッド・プレイハウス〔1910年代のアメリカでロード・ダンセイニの劇も上演して小劇場運動を支えた劇団〕の公演を見ることが叶わなかった。とはいえ、原稿の形で海を越えて送られていた戯曲2篇の本格的な公演(もちろん観客もいた)を実際に目にした感想をくださいと、私はのちに依頼した。知り合いである他の戯曲家は皆、リハーサルの最初の数週の間も、その次の「試演」の数週の間もずっと、毎日原稿に気をもんで内容のチェックにいそしんでいる。大都市での公演本番の初夜を迎えないうちに、こうした方々は自作のセリフを繰り返し耳にして気がすっかり滅入ってしまうのだ。
ロード・ダンセイニはこの稀な経験から、戯曲は舞台にあげられるのを見るまで語れることは少ないというのが改めて分かったと答えた。「旅宿の一夜」は作者の期待を超え、作者は同戯曲がスリルをもたらしたことに気づいて驚いていた。ロード・ダンセイニは言った。「非常に単純なものですーーあるものを盗み、自分たちが追われているのを知っている数人の船員の話にすぎません。恐らく舞台効果があるのは、ほぼ全員がある時点で自らの心の痛むことを犯し、復讐を恐れ、己の首の後ろに迫りくる復讐の恐ろしさを覚えるからです。」
一方で、作者は「女王の敵」に少しがっかりしていた。私にこう話してくれた。「この2篇を書いた際、『女王』は『旅宿』より優れている感じがあったのです! 今となっては『旅宿の一夜』の方が戯曲らしいと分かりました」
ロード・ダンセイニは続けてこう言った。「ですが、誤解なさらぬよう。『旅宿』は『女王』より深い印象を残す戯曲です。しかし、さほど素晴らしい作品ではありません。私が彫刻師に木塊を1つ渡して、それを彫ってもらうと仮定しましょう。加えて、見事に仕上がったとしましょう。そうしてできたのが『旅宿の一夜』です。次に、その同じ彫刻師に象牙を渡すと仮定し、さらにその出来がいまいちだったとします。それが『女王の敵』です。『旅宿』ほど戯曲らしくない作品です。とはいえ、本質は優れたものです」
私は「どうして、そうお考えなのですか」と尋ねた。
「アイデアが要因です」と作者は答えた。「『旅宿の一夜』のアイデアはむしろ平凡なものです。ゆえに、観客の皆さんに強く訴えかけることができるのでしょう。そして、あなたのような数名の批評家たちがご指摘なさるように、『山の神々』で以前使ったことのあるものと同種のアイデアです。けれども、『女王の敵』のアイデアは私のお気に入りです。自らの敵を残らず和睦の宴に招いたかと思えば突然にその者たちを溺死させた、ある古代エジプトの女王の話を聞いたのです。この並外れた行為にいたる動機を想像できるようになるまで一体どういうことなのか分かりませんでした。数か月後、その動機が閃いたのです。敵を一切持ちたくないという実に単純な理由で、愛おしい女王はこの行いに出たのです。女王は愛されたい一方、嫌われたくありませんでした。残りは簡単でした。動機が見つかると、この戯曲は完成しました」
「いつも動機から作品作りに臨むのですか」と質問した。
「いつもという訳ではありません」とロード・ダンセイニは返事をかえした。「どのような事柄からも、またはほとんど何でもないようなものからも着手します。それから、いきなり作品作りに入り、急いで作業をします。メインとなる点は、雰囲気を損ねないことです。説得力のある文を早く書ける人にとって、執筆業はたやすいことです。次に進むための急ぎの作業が遅れる際だけ、難しくなります。私の短い戯曲は一仕事の時間で、またはもう一仕事して仕上がったものが大多数です。この前(ロード・ダンセイニ曰く1919年の12月のことだ)セント・ルイスにて、短い戯曲のアイデアが降りてきました。列車に乗って創作を始めたところ、シカゴに着かないうちに完成させられました。後光の差す僧にまつわる、ちょっとした作品です。お気に召すものであるはずです」
「『山の神々』はどうでしたか」と聞いた。
ロード・ダンセイニは「一仕事の3回目で完成しましたーーティータイムとディナーの間の午後のうちに二度、それからその午後にもう1時間をかけてのことです。『旅宿の一夜』はティータイムとディナーの間の一仕事で書き上げました。実に楽でした」と言った。
「会話の文のことで困ることはないのですか」と聞いてみた。
「人がたくさんいるところに身を置いて耳を傾けていれば、会話の文作りは難しくありません。ある人がある発言をします。別の人がそれに完全に同意しかねる状況になれば、第三者が出しゃばらない形で条件を提案します。それから、その提案者は『いや、まったくそうではない。実のところは……』と口にします。そういう流れが会話になります」
「ところで、文体はどうですか」
「まあ、無論ながら、韻律のようなものがあります」とロード・ダンセイニは答えた。
「戯曲を戯曲たらしめる価値は、それが会話の文体に現れようと現れまいと、あらゆる文学的な価値とまったく別物であるということで同意見ですね?」
「ええ、その通りです。『文学的な』劇作家として私を酷評なさらぬよう。私の戯曲のうち10篇をお読みになったとのことですが、すでに20篇以上を書き上げています。そのなかでも最高のものは、まだ刊行されていません。そういった作品は読者が目にする機会をもらう前に見ざるを得なくなるのを望んで、使わずにとっておいております」
「ピネロのことを思い出しますね」と私は返事した。
「10年前から、アーサー氏は私にプロンプター用の脚本コピーを習慣的に送ってくださるようになりました。しかし、氏は私に誓わせたことがあります。劇場で戯曲を見終えるまで、こういった印刷された文を決して読んではならない、ということですーーその戯曲の書評を執筆するように頼まれた場合は特に、厳守せねばなりません」
ロード・ダンセイニはこう言った。「分かります。舞台にあがった『女王』と『旅宿』を見て、それらへの自己評価が誤っていると理解しましたので」
そこで私は聞いてみた。「非常に速いペースで戯曲を書くのであれば、書き始める前に頭の中であらゆるものに緻密な計画を立てなければならないと推察いたします。雑誌出版社に勤める人々の間で、私は執筆ペースの速い人間として名が通っています。1年に50本以上の記事を発表しています。そのほとんどは一晩のうちに仕上がったものです。とはいえ、腰を落ち着けて最初の文を書き始める前に、3日か4日間はずっと考えてしまいます。地下鉄に乗っている時も、幕間でも、話しかけられている時もです。正直に申せば、日単位ではなく週単位の時間を仕事に要していると言ってもいいでしょう。即興のスピーチは3分か4分ばかり続けば充分なものですが(そのスピーチの場が重要なものであれば)本番前の数日を費やしてしまうこともあります。長期間にわたる準備が(きっとその多くを気付かぬうちにしているでしょう)あらかじめ完了しないのならば、3日間という期間に限定して、『山の神々』が数時間で書き上げられるのは想像のつかないことです」
その言葉を聞いて、ロード・ダンセイニはこう言った。「頻繁ではないですが、それについて熟考したことがあります。おかげで、これからどう進めるかが分かるのです。『神々』がその事例でした。けれども、猟師が猟犬のあとを追うように、出発したら意向に添うだけ、ということもあります。一例を挙げましょうーー『アルギメネス王』です。ぼろ服を着た王が骨を掘り起こして、むさぼるようにそれをかじって『こりゃよい骨だ』と言うところが目に浮かびました。この場面の後の展開のアイデアが一切ないまま、この戯曲を書き始めました。流れにそって書くばかりでしたが、何が起こり得るか分かったのです」
無礼ながらも私はこう返事した。「私も常々そう考えております。」
それから、「この戯曲は、とりわけ感心することのない数少ない作品の1つなのです。つじつまが合っていないような印象がありますし、クライマックスに迫るにつれ盛り上がる感じではありません」と続けた。
「話の初めを書き始めた際に結末が頭の中に無かったゆえに、そうなったに間違いありません……言わずもがな、計画的な方が望ましいです」とロード・ダンセイニは言った。その後、こう付け加えた。「それに、雰囲気の勢いだけに任せないのも望ましいです」
この話のやり取りを記録するなかで、私はこうした行き当たりばったりに抱いた個人的な感想を時系列につづることを優先した。実は、私がロード・ダンセイニと初めて会ったのは、この人物に敬意を表する公式晩餐会でのことだ。その場において、スピーチを行う者の一人として自らの責務を果たそうと努めた。特に変わったことのない、良いイベントだった。場を去ろうとする時、私は衆目を集めることにうんざりしているかとロード・ダンセイニに質問した。するとたちまち、このような返事がかえってきた。「衆目を集めることですか。この規模を衆目と言ってはなりません。メシヌ高地の下にあった塹壕をご覧になったはずです。それこそ、私が身を置いたなかで最も衆目を集めた場所です。私を含む部隊は谷にいました。ドイツ軍は丘の上にいて、私たちのブーツの先端まで眼下に収めていました」
ロード・ダンセイニは私に目を向けて「身長はどれほどですか」と質問した。
「6.1フィート〔1.86メートル〕ほどです」と私が答えると、
「私は6.4フィート〔1.95メートル〕です。私たちの塹壕はたった6フィート〔1.83メートル〕の深さでした。『衆目を集める』のを、私は二度と恐れないでしょう」と、ロード・ダンセイニは言った。
のちに私は、ロード・ダンセイニに軍隊生活にまつわる話をお願いした。すると、次のような言葉が返ってきた。「私は兵士になるように育てられました。入れられたのはオックスフォードでなければケンブリッジでもなく、サンドハースト〔王立陸軍士官学校〕でした。南アフリカでの戦争〔第二次ボーア戦争〕を経験し、近年の戦争には初めから終わりまで従事しました。戦争に備えることについて申し上げるなら、それはこういうことですーー戦争は人間の教育にならず、人間の訓練になるだけということです。訓練を受けた人間は、ほとんど機械のように完璧にたった1つのことを果たせますが、教育を受けた人間はどのようなことを頼まれてもそのほぼ全てを遂げられます。教育を受ける方が望ましいのです。この教育という面で、大学とは軍より優れた場所です」
またある時に私が触れたのは、自らの戯曲が劇場の支配人から支配人へと売られるという怪しげな経験(私の業界外ではよくあることだが)をロード・ダンセイニが、まだしていないという件だった。私はロード・ダンセイニをアメリカの戯曲家たちに紹介したが、その大多数は職業の都合上、戯曲を書くという魅力的な仕事より、戯曲を「上演」するという実務的な仕事に自分の時間をいっそう充てるように求められた。ロード・ダンセイニは答えた。「そういうわけで、私の最高の戯曲のうち、10篇ほどが上演されないのかもしれません。自分の戯曲を売り込む時間など、私にはありません。私の実生活の97パーセントほどは野外での生活で、猟犬を追ったり、クリケットをしたり、大物を狩ったり、職業軍人を務めたりと、運動神経を要する活動を実践します。残りの3パーセントは、私の夢を記録している物語や戯曲の執筆です。私の文学作品を売り込む時間がどこにありましょうか……。最近、現代のロンドンにおける生活を取り扱った長編戯曲を数篇書きました。こうした作品がロンドン、あるいはニューヨークでいかにして売られるのでしょうか」
この質問を聞いた私は驚いたが、その驚きは別の驚くべき発見をするまでのものだった。何かと言うと、我が国の商業劇場で上演したただ1つの「失敗作」で私が稼いだ金額が、自身に名声をもたらしている「成功作」のすべてをもってロード・ダンセイニが稼いだ額より上だということだった。『山の神々』がロンドンのヘイマーケット劇場でリハーサルにあげられると、ロード・ダンセイニは世界での永久上演権のために10ポンドを支払おうと言われた。この契約は作者にとって不公平なもので、その権利は5年に限定すべきと要求した。この期間はとうに過ぎたものの〔『山の神々』は1912年発表〕、おそらく世界一の短編戯曲である作品が実際にこの世に出た最初の5年のあいだに作者が得たのは50ドルを下回る額だった。それ以来、ロード・ダンセイニは経験を通じて、より実践的なビジネスセンスを発展させているが、それを記せるのは喜ばしいことだ。
私に語ったところでは、「戯曲を書くのは私が何よりもこよなく愛することですが、故郷のミーズ県ではこのことを話せません。仮に伯母が私の戯曲家としての顔を知るとなれば呆れてしまうでしょう。近隣の人々から頭がおかしいと思われて相手にされないでしょう。ほかの誰からも、馬鹿と思われることでしょう。共感してくれる観客を見出すべく、あなた方の国に来なければなりませんでした」とのことでもあった。
アーサー・ピネロ氏の「ミッド・チャンネル」〔1909年に初演された戯曲〕はロンドンであまり成功しなかったが、ニューヨークではまずまずの成功を収めた。そのような事態になった後、アーサー氏はおどけて私に「アメリカという国が無ければ、私たちは生きていけません」と言った。この旨をロード・ダンセイニに伝えたところ、「アメリカの人々は驚くほどに明晰な頭脳の持ち主です」と言った。私も講演を仕事にする人間だったが、不都合ながらもこう返答した。「自分の話を快く聞いてもらっている感じを与える人々が、本にサインをもらおうと群がるとしましょう。すると、そうした方々に対して頭が良いという印象を自ずと抱くものです」
これに対し、ロード・ダンセイニは答えた。「それは正鵠を失しています。アメリカにて、芸術のことを恥じらわず話す方々にたくさん会ってきました。近頃の英国では、芸術は一笑に付されてしまうのです。
「『山の神々』がヘイマーケット劇場で初めて上演された際、ある紳士気取りの批評家がこの戯曲は貴族によって執筆されたという理由だけで酷評しました。まさにキーツが薬剤師の職に戻れと1世紀前に命じられたように、この人物は私に先祖の城に帰れとも言いました。貴族の時代に、どうしてキーツが軽蔑の的と化さねばならなかったのでしょうか。そして民主主義の時代に、どうして私が軽蔑されなければならないのでしょうか。私が美しい物語や舞台効果のある戯曲を書こうとしているのが原因ではないのです。
「私の試みが正しく評価されているのはアメリカだけです。英国で私の名声は皆無です。自国の作家たちのあいだで、私は順位をほとんどつけられていません。あなたであれば、私よりもその作家たちの多くをご存知でしょう。とはいえ、私に書き続ける刺激をもたらすアメリカに感謝しております。詩人は正当な評価のもとで栄える存在です。私も、歓待を欠かさないアメリカの人々から与えられるそのような激励を必要としています」
私は質問をした。「あなたの生活の区分の仕方についてお聞きしたいです。笑顔を浮かべて仰いましたが、そのうちの3パーセントを執筆に充てて、残りの圧倒的な配分をスポーツに充てているのですね?」
すると、ロード・ダンセイニは言った。「すでに気付いているのですがーークリケット選手、猟師や兵士のように戸外で活動的な生活に従う人の大多数に芸術について話をしてはならないのですね。その一方で、芸術家たちに囲まれるなか、この世のスポーツ好きの人間の長所を恥じらわず褒めそやしても構わないということにも気付いています。行動的な人々が夢想家たちをいつも怖がっているのはなぜなのでしょうか。かと思えば、夢想家たちはその行動的な人々を決して怖がらないのはなぜなのでしょうか。その理由は、夢が常に行動よりも強いということに間違いないでしょう。ジャンヌ・ダルクは英国兵の連隊よりも戦に勝つための強い力を常々有しています。それは、この大昔の小作農の娘が何百万人もの人間の想像によって真実味を帯びるようになったからです。いかなるものも、絶えず思い描かれなければ、実現しないのが常なのです。
「戸外での活動的な生活は気に入っています。戦争に4、5年、身を置いてから、窓の閉まった部屋にいると居心地が悪く思われます。ですが、活動的な生活は大変孤独なものです。私はあなたのような文学者とクリケット、ライオン狩り、軍人生活について話すことができます。あなたは関心を寄せているはずです。というのも、芸術家は何事にも関心を寄せているからです。けれども、クリケット選手、兵士やライオンを狩る人間に私の夢見ることについて話すのは叶いません。こうした人々から、私がおかしくなったと思われるでしょう。塹壕では大変寂しい思いをしました。アメリカでは数多くの作家に会うことができ、そして彼らのほとんどがスポーツを嗜むと知れて、私としては嬉しい限りです」
ここで私は「戦争が及ぼす演劇への影響について、どうお思いですか」と尋ねた。
「4年におよぶ地獄と義勇によって目前の現実は蹂躙され、人々は永続的な現実のしぶとさを思い出しました。理想主義こそ唯一の絶対現実だと人々は知るようになりました。苛まれたこの世は再び目覚めなければなりません。それに合わせて、劇場が復興されるべきです。先日この目で見たマクシム・ゴーリキーの『夜の宿』のように、正確ながらも気落ちさせるような形で私たちの今の生活の最も活気のない面を記録するのに、時が過ぎてしまっています。劇場に足を運ぶ大衆に、壮麗のようなものが見聞録において今も判別されるべきだと思い起こさせる瞬間が来ています。大衆の目の前に美という壮麗な表現をもたらしましょう。キーツを薬剤師の職に戻そうとする例の批評家がいたとはいえ、美とは真実なのです」
私は口にした。「キーツは自分が有名になるかどうかを知らぬまま、この世を去りました。あなたは40歳で名声を得ています。キーツより幸運な存在ですね」
「ええ、幸運です」とロード・ダンセイニは返事した。「それもアメリカのおかげです。それで良いのです。私個人のことを話しているのではありませんが、結局のところ私は詩人です。というのも、詩人とは生きているうちに正当な評価を得るべき存在ですから。英国において、詩人とは死して正当な評価を受ける存在です。ルパート・ブルックのことを考えてください。死後に彼の著作は読まれるようになりました。英国において、私は貴族であるだけなのです」
「この国でもてはやされて退屈なさっていませんか」
「いいえ、まったく。ありがたいことです」とロード・ダンセイニは返事した。
ロード・ダンセイニは(ある点で意見が合おうとも合わなかろうとも)生気がみなぎっていると認めざるを得ない。この人物は身長がとても高く、しまりがなく、骨ばっていて、かなり不恰好であり、大きな頭と巨大な手足のせいで動きにくそうにしている。冗談交じりに、自分が故郷のミーズ県でファッション感覚が最悪の人物と思われていると認めている。うなだれた格好で足を引きずるように歩くが、メシヌ高地の下の塹壕という閉所における長きにわたる体験のせいで間違いなくその様子は目立つようになったのだろう。しかし、ロード・ダンセイニの心は不恰好でもなければ沈んでもいない。話しぶりは流暢で巧みだ。率直で着飾らない性格であるゆえに、大変親しみやすい人物であるのだ。
翻訳は以上です。衝撃的な内容も盛りだくさんだったかと思いますが、一番の衝撃的事項は「執筆業はダンセイニの生活の数パーセントを占めるだけ」ということでしょうか。その少ない比重であろうと、数多くの読者を魅了する幻想的な作品が並外れた着想に裏打ちされているのは間違いないことです。
今回の翻訳記事をラストまで読んで下さった皆様に感謝申し上げます。
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