【映画感想】野淵昶『恋三味線』(1946年)
6月15日から22日まで、「野淵昶ものがたり」を、三部に分けてお送りしました。
三部のシリーズが終わったと聞いて、「勝ったッ!第3部完!」という勝気に溢れた声と、「ほーお、誰が野淵昶の紹介をするんだ?」という声が聞こえて来そうです。が、野淵昶の映画感想文を掲載することで、少なくとも私が野淵昶の紹介を続けてまいります。では、以下から本題でございます。
『恋三味線』(1946年)
※こちらの映画感想は、2019年の某日に京都府立図書館で『恋三味線』のVHSを見た後に書いた感想に加筆修正をほどこしたものです。
(ネタバレ防止のため、以下の写真の下にかなりのスペースを開けてから本文が始まります。)
野淵昶にとって第二次世界大戦後初に完成させた作品が『恋三味線』です。同作品のVHSのカバーから概要を引用すると次の通りになります。※括弧内の役者名は筆者追記。
主役の正太郎が刺客を送られ計略に嵌まった際の乱闘シーンは、正太郎が殴られるのに明らかに拳が当たっていないように見えたところを除き、迫力がありました。(川崎新太郎による)カメラワークは鋭敏で、刺客のうちの一人が投げられるや、彼のアップが写されます。正太郎が三味線のバチを一人の刺客の眉間あたりに力任せにぶつけて大怪我を負わせて、正太郎は引用の通りに破門されてしまいます。
ここから正太郎の旅芸人としての暮らしが始まります。が、始めは家元後継者としての誇りが邪魔して、酒癖の悪い客のドンドン節や串本節とかを披露しろという要望に対して「存じません」の一点張り。そのかたくなな正太郎に代わって唄担当のお須賀は串本節をやることを引き受け、正太郎を説得しては客の望みに何とか応えます。尾道や宇和島を旅する中で正三郎は旅芸人としての決意が強まり、お須賀に「わしの妻になってくれんか」と告白をします。その際のお須賀の反応が、着物の袖で顔を覆って泣くというもので、『東京物語』の紀子を演じる原節子が、周吉役の笠智衆の言葉に思わず涙するあの有名な場面が私には思い出されました。ここからは正三郎がお須賀を支える番となります。
途中、東京音頭にのってばか騒ぎする男衆のシーンがあったのも笑いを誘いました。
一方、師匠は愛弟子の正太郎を破門にした心労からか右手に震えが生じるようになります。しばらく後に大阪の中座で開催される歌舞伎の舞台公演の直前でもその症状は和らがず、演奏がままならぬ状態。そこで急遽、白羽の矢が正三郎(大阪に帰って来ていた)に立ちます。これ以上が無いようなナイスタイミングではありますが。その際に慌てて正三郎の家を訪れる演者たちの様は非常に滑稽だった。正三郎は大阪の中座に一観客として観に行っていると、お須賀が告げます。「そんなアホなことあるかいな」という太吉役の尾上栄二郎の言葉もコメディーの典型のなかの典型を見ているようで、好印象でした。
場内アナウンスで正三郎を舞台裏に呼ぶことに成功した後、師匠が「破門は内々のことで外にはさほど影響はない」というようなことを言って、出演をためらう正三郎を説得。そこから画面に映るのは、歌舞伎舞台の映像が中心で、あとは正三郎のカットと、お須賀が舞台裏で演奏を聴いているカットでした。演奏は激しく、聞き応えがありました。(七三郎は三味線の腕前で正三郎に劣るため、師匠の眼中にはありませんでした。)
舞台の映像がぶつ切り気味に終わると、閑散とした夜の街を歩く正太郎とお須賀の映像に切り替わります。師匠が映画冒頭で「名跡が可愛い」ということを言っていましたが、正太郎は「今のわしに可愛いのは、自分の芸と妻」と口にします。そうしてすぐに終の一文字が一面に出ました。
なお、映画本編が始まる前に「隣り近所 力を合はせて 援けあって 祖国の再建に 邁進しませう」という文言が現れました。鑑賞時は映画の内容と独立したメッセージと思っていたものの、思い返すとこの映画は助け合いと人情の作品だったのでしょう。場面の切り替えの拙さは見られましたが、野淵昶の脚本も活きた快作でした。