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ベルセルクという物語に俺たちが望んでいたこと

あんたも未完の物語ってやつに涙したことがあるかい?

世の中には実に多くの未完の物語ってのが存在している。

ここ最近だとベルセルクの作者である三浦建太郎さんがお亡くなりになったことで未完の物語になってしまったし、バチバチシリーズも佐藤タカヒロさんがお亡くなりになったことで壮絶な絶筆となってしまった。

誰かが続きを書いてくれれば良いとは思うけれども、作者のみなさんがどんだけの魂を込めて書いていたのかってのを考えるとおいそれとは出来る話じゃない。

なら、そう言う話については俺たちが妄想を働かすしか無いって思っておいたほうが良いのかもしれないな。

今回はベルセルクを例に「どう終わってほしかったか」ってことについて考えてみる回だ。

まあ、一読者のお遊びよ。
あんたも一緒に悪ふざけしてみようぜ。

ベルセルクという作品のテーマ

ベルセルクって作品のテーマってなんだろうって聞かれたらあんたはどう答えるんだろうか?

ダークファンタジーというモチーフで描かれながらその物語が「なに」を描き出してたんだって言われると、実に表現が難しい作品だと思ったりする。

青春群像劇であり、宗教の歪みであり、ヒトの関わりの凄惨さであり、子どもたちの成長活劇でもある。

あえて言うなら「世界のありのまま」ってのをマンガにしようとしている様に見える。
同じダークファンタジーって意味なら進撃の巨人と比較しやすいのかもしれないけれども、進撃の巨人があの巨大な物語で「結局はヒトは救われない」って結論を緻密に描いているのに対して、ベルセルクは「救われない現実にあがき続けるヒト」ってのを描いている気がするんだよな。

まさに今現在、激変し続ける俺たちのもがきを象徴すること。
それそのものがベルセルクという作品で描き出していることに見えるってわけだ。

あがくヒトという魅力

このあがくという行為に対して、俺たちはどうしてこれほどに惹きつけられるんだろう?

おそらくは俺たち自身が多かれ少なかれなんかしらあがいているはずなので、ベルセルクでガッツを始めとする多くのヒトがあがいている姿に共感しているってことなんだろうな。

あの案件に対して結論をつけなきゃ。
あの法事を取り仕切らないとご先祖に申し訳が断たない。
あの学校行事で親が盛り上げないと子どもがかわいそうだ。

実に多くの理由で実に多くの物事に俺たちは取り組んでいるじゃないか。
もちろんベルセルクで描き出されている凄惨な出来事とは全くジャンルが異なるとは思うけれども、ガッツがのあがきはそう言う俺たちの日常のあがきと重ね合わせることが多くなっていた気がするんだよね。

あがきの先にあってほしいもの

で、俺たちの日常のあがきに対して俺たちは何を望んでいるのか?

当然、そのあがきが何らかの成就を迎えてほしいってことなんだけれど、そもそも、その成就ってのを俺たちはあまり深く考えて行動してないじゃんか。

仕事だったら、プロジェクトの完了基準を満たせばいいだけだって思ってその先にあることってあんまり考えたりしてないよな。

でもさ。
きっとだけれども、その行動の結果の先にあるものってのが大事なんだよな。

仕事で何かのプロジェクトをこなしたことが大切なんじゃなくて、そのプロジェクトの結果を使って世の中のヒトがどう幸せになったのかが本当は大事じゃんか。

そう考えるとベルセルクでの結末がどうあってほしかったのかって考える切っ掛けになる気がしてくるんだよな。

ベルセルクってのは究極ガッツとグリフィスという2人のための物語だ。
いや、キャスカどうしたよって思うと思うけれど、ぶっちゃけあの物語ではキャスカは調味料でしかなくて、あくまでメインはガッツとグリフィスだと思うんだよ。

言い換えれば、グリフィスの「王国」と言う究極の「与えられる幸せ」とガッツの「仲間」という「苦しみをともにするもの」の対立軸って話だと思うんだ。

かつてはグリフィスも「苦しみをともにするもの」としてガッツを受け入れていた。
ところが今はグリフィスはそう言う「仲間」を傍らに置くことが許されない。
絶対者として君臨することが望まれているし、その存在が混沌で埋め尽くされた今の世界では必要だからだ。

対してガッツは同じく混沌とした世界の中にかつては一人で身を埋没させながらあがいていたところに、守るべき弱者としての仲間を手に入れることによって自らのあがきに対する「救い」を手に入れている。

その前提で考えると、ベルセルクに求められる結論ってのは、与えられる幸せよりももぎ取った幸せが重要だって話にならざるを得ないと思うんだ。

物語の構造的にガッツはグリフィスを倒した上で救わないといけない。
そうなるとグリフィスは倒されることを「望んでいる」必要がある。

そもそもなぜグリフィスは王国を求めたのか?
描写としては生まれたときからそうだったって感じだったと思う。

つまり神の采配ってわけだ。

ならガッツは神の目論見を打ち壊す必要がある。
そのためにはグリフィスという存在を通じて世界の因果律そのものにアプローチする必要があって、その構造そのものを解きほぐしていった上で、その構造を打破するって必要が出てくる。

ああ、こりゃ作品としての決着をつけるのに数世紀を要するぞ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはベルセルクという物語に何を求めていたんだろうか?

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