制作と作品とコミュニケーション
あんたは原作改変ってキーワードにどんな感情を持っている?
セクシー田中さんの悲劇以来、原作改変への風当たりは強くなっていったじゃんか。
ところが、実態としてはきっちり原作を踏まえた上でアニメなら「アニオリ」って感じで表現が追加されていたり、ドラマや映画でも「改変」は続いている。
俺としてはこの「改変」が続いていることそのものは自然な流れだと感じているんだよね。
何しろ、そこにクリエイターがいる以上は何かをクリエイトしないと作品にならんわけだから。
じゃあ、セクシー田中さんの悲劇はなんで起きたのか。
今回はクリエイター同士のコミュニケーションについて考えてみる回だ。
まあ、気持ちの話だから想像でしかないんだけれどさ。付き合ってくれよな。
表現したいもの
いや、例えばね。
ガンダムSEEDってあるじゃんか。
今映画で続編が20年ぶりに出てるやつ。
あれって50話×2シーズンで100話もの時間をかけて描かれているんだけれどさ、その最終話はホントに受け入れがたいものだったんだよ。俺にとって。
で、まあ続編映画はまだ見ていないので、見たらまたそのことについて書くんだろうけれどさ。
あんまりにも納得がいかなくて、同じようなヒトが集って「納得いく終わり」を作りたいヒトが物語を作ったり、不足している情報を補完したりできるこんなサイトを立ち上げたわけよ。
まあ、途中で空中分解しちゃったから、モノづくりの難しさみたいなものをものすごく痛感させてもらった。
でね。
このサイトでのヒトとのやり取りを思い出してみると、ホントにモノづくりの意図ってのを同じ方向にまとめるってのは、ほぼムリゲーなんだよな。
何しろ作品に対する思いの量が半端ない。
なおかつ、上のRevivalについては納得いかないポイントがヒトによって違っていた。
そもそも、納得いかないポイントってのが何なのかってことを言語化していないヒトだっていた。
なので、SEEDのキャラクター一人ひとりの感情を丁寧にひも解いて、物語のキーワードを深読みして、そもそもSEEDの世界を救うってどういうことなのかみたいなことを話し合ったりしていた。
それでも演出方法というか、表現方法についてはあっちゃこっちゃに行くわけよ。
連載中マンガのドラマ化
そんな風に表現の調整だったり、テーマの解釈の違いだったりっての調整ってのは、ものすごいコミュニケーションコストが高いわけだ。
それをね。
連載中の漫画家がこなせるのか?って言われると「いや、無理だろ」って思っちまう。
例えば超有名なところで言うとこんなのあるじゃん。
いや、これ見たらさ。
これやりながらほかのコミュニケーションコストなんてかけられるわけないじゃんって思うわけよ。
ってか、やっぱ藤田和日郎さんってえぐいな。
で、想像してみてほしいわけよ。
文字通りこんな「格闘」をしている日々の中で、別の「格闘」をこなす日々ってのをさ。
ヒトのメンタルなんてのは、そんなに丈夫に出来ていないと思うんだよね。
「クールじゃ作品なんて作れない」
それは原作者でもドラマの制作陣のヒトでも同じなんだと思うんだよ。
そんな感情が劇あげしている奴らが「調整」するわけだ。
調整の先に描かれるもの
でね。
その調整のコストがえぐいのは想像に難くないんだけれど、その結果「良いもの」が出来たりするってのもあると思うんだ。
最近だとさ。
葬送のフリーレンとかだとさ。
まあまあ原作にないシーンとかが付け加わってるじゃん。
しかも、原作の流れに関わりかねないようなシーンも追加されている。
これって、原作者とのコミュニケーションなしには成立しない。
でも、「あのシーンって意味があるんだろうな」って見る側からすると感じるところがあったりする。
このことから考えると、本質的に制作者同士のコミュニケーションそのものは否定されるもんじゃないって思うわけよ。
ただ単純に連載中の漫画家にはそのコストを掛ける余裕がないってだけでさ。
なあ、あんたはどう思う?
すべての制作者が最高の作品にたどり着くためにはどうすれば良いんだろうな?
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