変化と慣れと幸せと
あんたも生き馬の目を抜くような世界観に身を浸しながら、なんとか今をしのいでいるって感覚で生きているかい?
インターネットが生活の一部になってからざっくり四半世紀が過ぎているわけだけれど、この間に起きた激動の歴史はのちの歴史家から見たら「革命」が起きたって表現されるくらいの変化の時代だって評価を受ける気がするんだよな。
いや、ぶっちゃけだ。
5年前に「戦争」がこんなにも日常のニュースで取り上げられるようなことになるって想像できたか?
10年前に働き方改革が流行り病によって強制的に推し進められることになるなんて想像できたか?
たぶん、これから先5年後10年後の世界は俺たちの想像の斜め上を行く出来事が起き続けていくんだろうな。
何が起きるかはわからないけれど、変化し続けていくことだけは根拠もなく確信しちまうやつだ。
じゃあ、その変化をするという前提で考えた時に、今この瞬間に俺たちは何をどうしていくのが俺たちの幸せを呼び込むことになるんだろうな?
今回は変化の時代において、何が俺たちを幸せにするのかを考えて見る回だ。
ちっと今の俺たちを眺め直しておこうぜ。
変化へのハードル
まずもって考えてみたいのが、「俺たちは変化に対応することでどんな幸せを手に入れるのか」ってことだ。
そもそも、世の中が変化しまくっていることと、俺たちが変化し続けることは因果関係があるようで、実はその2つの間には「俺たちの意思」っていうわかったようでわからない何かが横たわっているんだよな。
よくさ。カンファタブルゾーンから抜け出さないと成長できないぜ、みたいなことを聞くじゃんか。
なに?横文字使ってテキトーにごまかしてんじゃないよって?
そらそうだ。
つまり、居心地がいい状況に慣れると、本質的にヒトって生き物は「変わりたがらない」もんだってことであってるか?
もちろん居心地が悪い状況は出来るだけ味わいたくないからなんとかしようとするんだけれど、それでもその状況を変えるためのハードルが高すぎるって「感じた」瞬間に俺たちは「慣れる」ってことを選択し始めるんだよな。
振り返ってみると、俺はこの「慣れる」ってことに対してワリカシ鈍感に過ごしていた気がする。
明確な意志をもって「変える」選択をした記憶は数えるほどしか無い。
「慣れる」ことに慣れていった記憶はいくらでも掘り起こせるけれどね。
「逃げる」ことで得た変化
俺の記憶を遡って考えてみると、俺が俺の意思で明確に変化を作り上げたことってのが一つある。
俺は会社人としてのレースから明確に「降りた」んだ。
いや「逃げた」ってのが正しいというか俺の感覚にあっているな。
自分の意見を通して周りを動かす。
そのために自分の感覚では受け入れがたいものを受け入れて清濁併せ呑んで進み続ける。
当時の俺にとって、それはものすごい苦痛を伴うことだったんだ。
なぜって?
俺の判断によって誰かの人生に影響を与えるって言う責任感に押しつぶされそうになっていたのが一つ。
単純に俺の感覚を言語化して誰かを納得させるために時間と労力を割くってのがオモロイと思えなかったのが一つ。
そもそも思いを通すために自分の感情が刺激されるのが嫌だったってのが根っこかもしらんな。
で、俺は「逃げた」。
文字通り仕事を放り出して逃げた。
逃げてみて得たものをあえて言葉にするなら、今までの自分を否定することに対する心理的なハードルが下がったってことかもしらん。
まあ、言い換えると「逃げることに慣れた」ってだけの話なんだけれどさ。
逃げた先の世界
で、まあこれも俺の感覚を垂れ流しにしているだけかもしらんけれど、逃げた先にも当たり前のように世界はあるわけだ。
その世界でも俺の意思によって影響を受けるヒトは居て、俺の意見を押し通すための時間と労力は必要で、その浪費によって相変わらず俺の感情は刺激され続けている。
そして、その新しい世界に対しても俺は「慣れて」いった。
もっと出来ることがあるはずだ。
そんなふうに俺を追い詰める俺も相変わらずいる。
そして、そんな俺にすら俺は慣れていく。
そう考えるとさ、俺たちは「慣れる」ってのをガキンチョの頃から仕込まれ続けてきたってことかもしらんって思うんだよ。
保育園、小学校、中学校、高校、大学、就職と経由してきて、その都度新しい「慣れる」という訓練を積んできた。
その結果俺たちは「変化に慣れる」という究極の感覚を手に入れているってことかもしれないな。
なあ、あんたはどっちにする?
この「慣れる」ことでの安寧に幸せを見出すか?
「抗う」ことで得られる肌が粟立つような感覚に幸せを見出すか?