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noteというメディアに集う意味
あんたにとって、noteってどんな場所なんだろうな?
俺にとって、noteって場所はなんとも言えない心地よさを持っている。
すべての読者が作り手であるという前提が作り出す雰囲気。
すべての読者が作り出すために何かを考えているということ。
その前提が俺の感覚を削り出してくれているような気がするんだよな。
今回は、作り手が作り手に対して文章を書くってことについて考えてみる回だ。
あんたも作り手だろ?まあ、付き合ってくれよな。
作り手としての感覚
今回この記事を書こうと思ったのは嘉島唯さんのこの記事を読んだからだ。
なんだろう?この読後感。
何かを論理的に説明している文章ではない。
シンプルに感覚を切り出すように紡ぎ出されている文章だと思った。
誰かに向けている文章ではない分、俺たち読み手の感覚にダイレクトに影響する文章。そんな印象だ。
その文章の中で俺を捕まえたファーストフレーズはこれだ。
noteはクリエイターであることが「前提」の場所。そのため、作る苦しみを知ってる人たちばかりなのだ。基本的に、みんなリスペクトがある。「あんなの簡単にできる」と言えない雰囲気があるのだ。
出展:嘉島唯さんのnote
みんなリスペクトがある。
これすごいことかもしれない。
このインターネットという本人を厳密な意味では知りようのないメディアにおいて、誰かをリスペクトするってことを前提としたコミュニティが形成されているっていう事実が。
実際、あんたも思うよな?
noteってメディアはリスペクトに溢れている。
記事の内容に対してネガティブな意見をぶつけるにしても、「何故この書き手はこの意見に至ったのだろう?」って感じに考えてからコメントするもんな。
否定することの存在意義
これが2ちゃんねるやらTwitterやらだと、だいぶ雰囲気が違う。
だいぶ昔にある二次創作を2ちゃんねるで寄り集まって創ってみたことがある。
結果としては、作品として完結することが叶わなかったが、それなりに楽しませてもらった。
その時の雰囲気は「あれをやってみよう」「これはどうだ?」といった意見交換もあったが、その団結が何から生み出されたのかと考えてみると、二次創作の元となる作品に対する不満だったんだと思う。
元となる作品が持っていたポテンシャルを完全に裏切る形で作品は完結してしまった。
その完結の仕方は当時の俺としても全く納得行かなかった記憶がある。
その不満のはけ口としてそのスレッドに多くの人が集ったんだよね。
※ちなみに元作品は機動戦士ガンダムSEEDとDestinyね。
で、当然「否定」で集まった人々が2ちゃんねるというメディアで遣り取りをするわけだけれども、当然のようにそのやり取りは「否定」をベースとしたやり取りだった。
「あんなのありえない」
それを前提に集まった集団だからね。
それはそれでものづくりをする体験としては刺激的だった。
なぜって?
「否定」という海の中にある「肯定」は光り輝くほど魅惑的だったからだと思うんだよね。
noteというメディアが持つ「何か」
対して、noteはそういった「否定」の雰囲気が極めて希薄だ。
何にしろ、みんながみんな何かを作り出そうとあがきまくっている。
嘉島唯さんも、このむき出しの感覚を切り出すような文章を書いているが、その行為は自らの身体を切り出して文章にしているような印象すら受ける。
「否定」がないからこそ、こう言う体を切り出すような文章が作り出され、俺たちはその作り手の切り出された一部を味わうように文章を堪能することが出来る。
これって、ある意味奇跡のようなことだと思うんだよな。
完全に「否定」を拒絶しているわけじゃない。
「否定」によって、自分は相手に何を伝えたいのかってことを真剣に考えてコメントするって雰囲気があるってことだ。
つまり、「否定」って行為そのものも作り手としての作品になるってことをこのnoteに集っている俺たちは感じているんだと思うんだよな。
ただの条件反射としての「否定」はこのnoteには似合わない。
そんな感覚で俺たちはここにいる。
あんたはどうだい?
俺たちのnoteはどんな風に誰かに届けることができると思う?