炭治郎と妓夫太郎と紅蓮華
あんたも鬼滅の刃の遊郭編を楽しんだかい?
圧倒的なアニメーションと音楽で俺たちを異次元の世界にいざなってくれた傑作だと思ったんだよな。
ufotableという会社がこの作品に対して立志編で込めた思いは無限列車編という映画を生み出すための予算をひねり出し、その結果として遊郭編のクオリティを作り上げたんだと思うんだよな。
そう言うアニメーションの制作陣のスゴさってのが際立っているとは思うけれど、遊郭編で登場したキャラクターというのも実に象徴的な感じがあると思うんだよね。
そう。妓夫太郎と堕姫の兄弟だ。
今回は遊郭編の中核をなすこの二人の鬼について考える回だ。
ちっと俺の作品もぐりに付き合ってくれよな。
炭治郎というキャラクターを表す歌
多くのヒトが語っているところだけれども、炭治郎と禰豆子の関係性は妓夫太郎と堕姫の関係性とかなり似通っている。
炭治郎本人が言っている通り、何かのキッカケ一つで炭治郎たちが妓夫太郎たちの様になっていたかもしれないし、妓夫太郎たちが炭治郎たちの様になっていたかもしれない。
そう考えてみると思いつく事がある。
今まで炭治郎をイメージされて作られた曲を妓夫太郎を思いながら聞いたらどんな感情が俺の中に沸き起こるんだろうってね。
紅蓮華を妓夫太郎の曲だと思って聞く
まず最初に思ったのが炭治郎と言えばって曲の代表格ってなんだろうって話だ。
やっぱ「紅蓮華」だよな。
いやあ、このころのLiSAさん輝いてんよなあ。
諸々のプライベートでメチャクチャ心がかき乱されていることは想像に難くないんだが、なんとかこの才能を世の中で輝かせてもらいたいって思う御仁だと思う。
で、紅蓮華。
作詞はLiSAさんご本人なんだね。
この歌詞を改めて味わってみると、もぉ見まごうこと無く炭治郎が浮かんでる。すげぇな。この歌詞。
炭治郎の中にある感情、炭治郎の中にある痛み、炭治郎の中にある責務。
その全てが詰め込まれているような歌だと思う。
その歌の魅力についてはさんざんぱら語られてきているものだと思うんだよな。
その上で、この歌詞を妓夫太郎のための歌とおもって眺めてみる。
……どうよ。
なんかさ、涙が止まらなくならないか?
強くなれる理由
妓夫太郎にとって、強くなれる理由は唯一つ。
妹の梅という存在だ。
ここにものすごい悲劇が込められている。
ヒトはヒトを周囲の評判で判断しないと生きていけないって事実だ。
妓夫太郎は強くなる必要があった。
醜い容姿はその存在そのものを疎まれるというハンデキャップを負わせていたし、なによりも最下層の遊郭での生活ってのは限界ギリギリの状態だったと思うから、子どもだとしても自分の命を守るために「強さ」ってのが何よりも重要な要素だったんだと思う。
でも妓夫太郎には強くなる「理由」は無かった。
少なくとも梅が生まれるその時までは。
妓夫太郎にとって生き残るという目的は強くなる理由にはならなかった。
言い換えれば自分の命に価値を認めることが出来なかった。
こんな悲しいことあるか?と思いながら、同時に俺たちは思うんだよな。
「俺の命にはどんな価値があるんだ」ってさ
妓夫太郎はその価値を見つけることが出来なかった。
だから紅蓮華はこう歌う。
「僕を連れて進め」と。
妓夫太郎は誰に「連れて」いかれたかったのか
妓夫太郎のヒトであったときの歴史は実に悲惨なものだ。
ぶっちゃけ「進め」という言葉をひねり出すのも困難なくらいの環境だとお思う。
それでも妓夫太郎は進むことを選択している。
後ろ指さされようが、石を投げつけられようが、「より良くなる」ことを目指して進む。
まさにこれだ。
どんな悲しみも推進力に変えて状況を変えていく。
何のために?
梅のためだ。
自分の存在意義が自分の外にある状態。
その凄まじいまでの辛さが見事に描き出されていたように思うんだ。
その痛みを紅蓮華という歌は別の形で俺たちに伝えてくれている気がしたんだよね。
そして、その痛みを妓夫太郎が納得するためには、痛みに対する理由を感じさせてくれる存在が必要だ。
それが妓夫太郎にとっての炭治郎だったってことなんじゃないか?
十二鬼月の中で唯一、炭治郎をみとめたのは妓夫太郎。
そのことが炭治郎と妓夫太郎がコインの表裏だってことを象徴している気がするんだよな。
なあ、あんたはどう思う?
紅蓮華という歌は俺たちに炭治郎と妓夫太郎の二人の物語を伝えてくれるように感じるかい?
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