大学と人材と
あんたも子どもが多い家庭のお子さんに対する大学授業料無償化がどうのこうのってニュース見たかい?
なんとなく、字面だけを追っかけて読んだだけなんだけれど、第一の感想としては、「大学無償化かあ」ってやつだったんだ。
ここnoteでも何度か書いているけれど、実際に働くヒトに求められているスキルと大学というシステムが提供してきたスキルを獲得する仕組みってのに、結構な乖離が出ているって現実があると思うんだよな。
でも、これも当然だとは思うけれども、その「人となり」なんつーものを面接なり入社試験なりというめちゃくちゃ限定的な時間と手段で選別をしなければいけない雇う側の立場を考えると、ある規模以上の採用という作業において、学歴というものを一つのハードルとして設けるのは致し方ない部分があるとも思う。
そういう事情を踏まえておくとさ。
日本の未来と今のためにどういう選択をするのが正解なんだろうな?
今回はこの実に答えが出しようのない話について考えてみる回だ。
俺たちがいつも政治に押し付けている「妥協」って行為を自分のこととして考えてみようぜ。
なぜ「良い大学」を出ている人材を求めるか
まずは想像してみよう。
あんたは何かの企業で採用を担当しているヒトだとする。
業種は何でもいいんだけれど、そうだなぁ、例えば食品メーカーの新卒採用ってのを想像してみるとするか。
食品メーカーのヒトと仕事をたことが俺にはないから、完全に俺の想像だけれども、ざっくり分ければいわゆる間接部門(経理だとか人事だとか直接利益をもたらさない仕事)と直接部門(物を売ったり、作ったり、開発したりする仕事)に分かれるよな。
で、間接部門は大体規模の違いはあるけれど、仕事内容は似てくると思う。
もちろん、業界の商慣習によって、各種費用計上のタイミングだとか、そういう違いはあるけれど、その仕事をこなすために求められている能力ってのは、そんなに差は生じないんじゃないかって思ったりする。
直接部門の場合は、もちっと求められる能力が、なんつーか「ふわっと」している気がする。
もちろん食品そのものに対する造詣ってのを持っているに越したことはないけれど、営業職に求められるのは、その造詣を前提条件としての作戦立案能力みたいなものだと思うし、工場のライン担当なら、生産工程における管理作業やカイゼン活動をどう回していけるかって能力だろう。
研究開発なら、食品に対する愛情みたいな感情的なものの比重が他より多いかもしれない。
……いや、逆に営業の方が愛情みたいなものを求められる瞬間が多いか?
求められる人材像という物語
つまりは、ぶっちゃけ「どういうヒトが欲しいのか」ってのを数字で疑いようのないように定義するのって不可能に近いんだよな。
そんな状況であんたは採用担当としてこう言われるわけだ。
「いい人材を取ってくれよ」ってね。
なんつーか「無茶言うな」って言いたくなるやつだよな。
でも当然締め切りはあるから、なんかしらで採用作業の効率を高めないといけない。
で、出てくるのが揺るがしようのない事実としての「出身大学」という肩書ってわけだ。
それがいつしか肩書が「能力」そのものみたいな物語を生む。
しゃあない。
そんな言葉が浮かんでくる感じがしないか?
時代に求められるヒト
で、実際さ。
世の中で活躍している御仁はいっぱいいるけれど、「良い大学」出身の人材が活躍しているってイメージがあんたの職場にはあるかい?
システム屋っていう知識がある程度幅を利かせている俺の仕事でも、出身大学ってので仕事仲間を眺めたことってほとんどない。
新人君が来た時に「頭いいなぁこいつ」って思って大学を聞いてみたらスゲーところだったってのはあるけどね。
実際、社長になっているヒトの出身大学のランキングなんてのがあった。
おおう、1位は今の話題をかっさらっている日本大学じゃんか。
早稲田、慶応を抑えて堂々の1位だ。
なんなら東大に至っては19位だぞ。
社長が良い仕事をしているって言い切ることなんて出来ないけれど、「良い大学」ってのと「良い仕事」にはそんなに因果関係が強くなさそうだってデータに見えるよな。
そんなことを踏まえてだ。
政治としてやるべきは「子どもをいっぱい養っている家庭の大学授業料免除」なのかね?
むしろ、極端な話、高卒とかで採用を進める企業への支援だったりしないか?
だって、もうヒトは増えないんだもん。
だったら質を上げるしかないんだけれど、そのために必要なのは教育機関での教育か?それとも実践を伴った経験かって言えば経験だってあんたも感じたりしないか?
なあ、あんたはどう思う?
今、日本の国力を伸ばしていくのに必要な教育や採用の在り方って何が正解だと思う?
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