「記憶の外部化」がもたらす意味
あんたもスマホを使っているかい?
俺たちの生活の中にものすごい勢いで入り込んできたスマホ。
スマホが生活に溶け込むことによって、情報は俺たちの中に蓄積されるものではなく、俺たちの中を通り過ぎていくものに変化した。
俺たちは日々、洪水のような情報を摂取して、そして忘れていく。
スマホがはじめて世界に登場したのが1992年。スマホという言葉が世界にはじめて登場したのが1996年。
この23年という年月は、世界の形を変えたと言っていいと思う。
今回は、スマホの登場と俺たちにとっての情報の意味の変化についてつらつらと考えてみる回だ。
ち~っと怖い話かもしれないが、つきあってくれよな。
ファーウェイがアメリカにハブられている理由
あんたもニュースで聞いているかもしれないが、ファーウェイがアメリカからハブられている。
ついこの間も、ファーウェイの次期スマホからGoogle製品が外されるという報道がなされた。
ざっくりいうと
「おまいら、何自社製品にバックドアとか仕込んでんの?馬鹿なの?もう遊んでやんない」
とジャイアン(アメリカ)がファーウェイに言っているらしい(極論)。
こう考えると、ジャイアンってのび太に寛容だよな。あんだけ、ひみつ道具で痛い目にあっているのに、のび太をハブにしたりしないもんな。
で、ジャイアン(アメリカ)が言うんだからっていうんで、ジャイ子(google)が、「じゃあ、私の漫画にも書かないからね!」ってなもんで、クリスチーネ剛田作品(google製アプリ)をファーウェイに使わせないってスンポーらしい。
……何?余計わかりにくいって?
うん、ぐうの音も出ない。
問題は、クリスチーネ剛田作品(google製アプリ)が、今のインターネットを前提とした世の中では、まさに神のごとくの力を持っているってことだよな。
その神の力の源泉が何なのか?
それこそが「情報」ってわけだ。
俺たちにとっての「情報」は個人に属していた
本来、「情報」ってやつは、俺たち個人の中に蓄積されていたものだった。
最初の活版印刷が始まったのだって、6世紀頃だから、ホモ・サピエンスがこの世界に誕生した30万年前からの歴史の中で、ほぼ大半の時期を「コピーされた情報」がない状態で俺たちヒトは生き続けてきた。
「情報」は俺たちの中でずっとオリジナルのものを口伝もしくは限定的な文字を使って伝達されてきたってわけだ。
その意味で「情報」というのは俺たち各々の中でオリジナルなものとして蓄積され、活用されていた。
口伝なり伝聞で得られる情報は厳密な意味ではコピーではないからな。
あんたも俺も学生時代に多くのことを学んだと思うが、俺たちの中に残っているのは教科書に載っていた情報ではなくて、その情報を俺たちが理解して身につけたものに変化しているもんな。
活版印刷の登場によって、完全にコピーされた情報が世界に登場した。
ただ、その情報は執筆と読書という極めてスピードの遅い伝達方法でしか消費されなかった。
「情報」が個人ではなくデバイスに消費される社会
そして、現在。インターネットという莫大なコピーされた情報が流通している社会。
もはや、情報を利用するのはヒトだけではなくなりつつある。
ありとあらゆるデバイスがネットに接続され、ありとあらゆる情報が人間に介在されること無く流通していく。
スマホはもちろんのこと、冷蔵庫や電子レンジだってネットに繋がっているし、エアコンや照明ですらネットに繋げられる。
接続されたデバイスは人間の把握しない大量の情報をやり取りする。
ちょっと空恐ろしい感じすら感じるよな。
みんな大好き「攻殻機動隊」の人形使いのセリフが思い起こされる。
生命とは情報の流れの中に生まれた結節点のようなものだ。
種としての生命は遺伝子という記憶システムを持ち、人は、ただ記憶によって個人たりうる。
たとえ記憶が幻の同意語であったとしても、人は記憶によって生きるものだ。
コンピュータの普及が、記憶の外部化を可能にした時、あなた達はもっとその意味を、真剣に考えるべきだった。
出展:攻殻機動隊Ghost in the shell
ヒトが記憶によって個人たりうる。
このことは今も昔も変わらない。
にもかかわらず、今のネット社会はその記憶の源泉である情報が指数関数的に増加していくことを抑制できていないってわけだ。
記憶の外部化。
この事の意味を攻殻機動隊が上映された1995年から俺たちは問われ続けている。
そして20年以上の年月をかけても、少なくともその答えに俺は到達できていない。
なあ、俺たちは俺たちから切り離された情報を把握することもできない。
ファーウェイのバックドアを問題視しているが、googleだって大量の俺たちのコントロールすることが困難な情報を集めている。
それはgoogleやファーウェイという企業の問題ですらない。
もはや、ヒトは「それが出来るから」という理由で流通される大量の情報をさらに増大し続けている。
それは、ヒトが神を作り上げるが如きの行動だと思わないか?
俺たちは今、神話の時代を生きているってことなのかもしれない。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは、大量の情報に埋もれながら、情報という神々の眷属として生きていくことが幸せなんだろうか?