興行再開の歌舞伎座・連獅子。愛之助=親獅子の慈愛に満ちた父性と、歌之助のナイストライ。
というわけで、歌舞伎座での八月花形歌舞伎、時勢に鑑み、1部当たり1演目の4部制というイレギュラーな興行の第1部を観てきた。5か月ぶりの歌舞伎興行が威勢よく連獅子で始まるというのは、なかなか乙な企画ではないだろうか。愛之助と壱太郎という組合せも、このようなイレギュラーな状況ならではの取り合わせという感じもあって興味深い。
<開演。アナウンスに続き、愛之助の父性が滲み出る。>
この日の開演前のアナウンスは、歌之助。若々しく、爽やかな声。
愛之助は、爽やか、かつ、逞しく、初めてのタイプの親獅子の精/狂言師右近。立ち姿だけを観ても、颯爽としていて美しく、男性的だけれど、質実剛健というよりしなやかな印象。仔獅子を谷底に突き落としてから、振付が他と違うのではないかと思わせるほど、谷の底を見つめる眼差しに強い慈愛を感じた。血縁関係にはない2人の連獅子でそんな想いを強く感じるというのは不思議なもので、愛之助から滲み出る父性の強さに驚いた。この人には子どもはいないのに…と真剣に思ったほど。これぞ、歌舞伎俳優の底力というものか。
<壱太郎のまっすぐな踊りにこちらの気持ちもまっすぐに。>
壱太郎は、振付の一つ一つが丁寧で伸びやかなのが印象的。まっすぐな視線と相まって、観ているこちらの背筋が伸びる思いがする。一つ一つ丁寧に踊っているのがよく分かるのに、ぶつ切りになっている感じがしないのは、踊り巧者としての実力に裏打ちされている証拠だろう。
<宗論では、歌之助が現代的な体格もカバーするナイストライ。>
宗論は、橋之助と歌之助。歌之助は、舞台上に出てきて最初の一声で声がよく出ているという印象で及第点。やはり、歌舞伎俳優は一に声(二に顔、三に姿)だと言うし。現代的な小顔で、華奢な体格でもあって、歌舞伎の世界で舞台映えする身体になっているとは思わないが、若い時代にこういう頃もあったというエピソードが一つ加わったと思えば、大したことではないだろう。小顔でも、顔の表情の変化には富んでいて、先輩俳優の中でもあれほど顔の筋肉を、多彩に、かつ、柔らかく使える人は多くないのではないかと思うほど。一生懸命勤める様子も伝わってくる。二枚目の見た目のせいか、おどけた台詞や笑い声は板についているとは言い難いが、今は、まだあどけなさも残るナイストライで十分観客を喜ばせられるのだから、それで構わない。それだけの愛嬌が備わっている時点で今後が楽しみである。応援したい。
<橋之助は、兄の貫禄。次は二枚目の役柄に磨きをかける?>
対する橋之助は、普段は若手として観ているが、弟との共演で一回り大きく見える。見映えもするし、ひょうきんな演技もより自然に見えて、襲名から4年で役柄の幅をしっかり広げてきた足跡がよく分かる。この手の役どころはある程度しっかり身についたことがよく分かるので、あとは、二枚目の役がどこまで勤まるか、成駒屋の長男坊として挑まないわけにはいかないだろう。案外、その面におけるライバルは、歌之助になってくるかもしれない。
<呆然と観て過ごしてしまった毛振り。圧巻。>
主演の2人が獅子の精になってから、特に毛振りは、こんなに短かったかな…と思ってしまうほどあっという間だった。良い席で夢中になって観ていたのもあるだろうが、それだけ白熱の演技だったということだろう。
<長唄、鳴物、後見は万全の感染対策。今ならではの見どころ。>
長唄連中と鳴物は、全員濃紺の布で鼻から下を覆うという拵えで時局を反映した様子。あの5か月ぶりの歌舞伎興行はこんな様子だった…と、この難しい時代ならではの歴史として振り返ることになるか、それとも、これが新しい歌舞伎のスタンダードになってしまうか。後見は、それに加えてフェイスシールドまで付けていた。応援している橋三郎が出ていたのに、なんとか本人だと認識できる程度にしか顔が見えなくて至極残念。他の後見は、愛一朗、中村光、芝歌蔵、芝喜松、彌光。