シド・バレットという「詩人」―― 言語表現者としての彼を考える(『シド・バレット全詩集』訳者による解説)。
このところ、シド・バレットをめぐる動きが再び活発になっている。今年4月にはシド・バレット・エステートを中心にYouTubeの新しい公式サイト〈Syd Barrett Official〉が開設されたし、翌5月には新しいドキュメンタリー映画『Have You Got It Yet? The Story of Syd Barrett and Pink Floyd』が英国で公開された。シドが2006年7月に逝去して以来、既に17年が経とうとしているにもかかわらず、音楽シーンにおける彼のプレゼンスはまったく衰えることがない。
そもそもシドという存在は、いくらでも「語れてしまう人物」である。「ティー・セット」という一介のR&Bバンドをメジャー・シーンに引っ張り上げてピンク・フロイドという巨大レジェンドへの道すじを切り拓いたアーティストであり、UKシーンにおけるサイケデリアの頂点を極めた天才マルチクリエイターであり、ドラッグに溺れバンドを去らざるを得なくなった妄執の人であり、音楽の才能に匹敵する特異なアートワークを多く遺した画家であり、じわじわと肥満する巨体を抱えながらこの世を去って行った隠遁者でもあった。
そのうえ、フロイドでの在籍期間は4年足らずだったにもかかわらず、〈狂人は心に(Brain Damage)〉や〈狂ったダイアモンド(Shine On You Crazy Diamond)〉などフロイドの代名詞的楽曲に濃密な影を落とすなど、ロジャー・ウォーターズたちのメンタルを深く強く、そして長く揺さぶりつづけた存在でもあった。並みの伝奇小説が蒼ざめるほどの物語の宝庫と言える。
けれど、そのように拡散されたパブリック・イメージの奥に潜む、ソングライターとしてのシド・バレット、さらに突き詰めれば、歌詞という言語表現を遊び尽くしたアーティストとしてのシド・バレットは、恐ろしくピュアで危うい「ダイアモンドの原石」として、半世紀余りの時の風化作用などものともせず、圧倒的かつ普遍的な輝きを持って2020年代を生きる私たちの感性に迫ってくる。
『シド・バレット全詩集』では、シドが遺した全52曲の「詩篇」(「歌詞」ではあるが、あえてここではそのアート性/文学性にリスペクトを捧げつつ「詩篇」と言いたい)がアルファベット順に並べられているが、ここから浮かび上がってくるのは、まぎれもなく人並外れた言語表現者の相貌である。デヴィッド・ギルモアもロジャー・ウォーターズも異口同音に(周知のように、既に数十年にもわたって犬猿の仲にある両者だが、シドに対する評価は見事に一致している)、「ロック史上でも屈指のソングライターになりうるポテンシャルを持ったアーティスト」としてシドを礼賛しているわけだが、あらためて彼の全作品を一望するとき、二人の思いがけっして誇張ではないことを実感できる。
とはいえ、それを日本語に変換する作業は或る意味で無謀な試みであり、シドの世界に精通した御仁からみれば、「そんなことが成立するのか?」と疑問を持たれるかもしれない。しかし、シドの「詩篇」の決定稿がこれだけしっかりと編纂された原書が刊行された以上、その凄みの片鱗だけでも、より多くの日本のロックリスナーに認識していただきたいという想いが募ったのは事実である。
〈アップルズ・アンド・オレンジズ(Apples and Oranges)〉のようにビバップなポップ感覚がはじけたもの、〈アーノルド・レーン(Arnold Layne)〉や〈ボブ・ディラン・ブルース(Bob Dylan Blues)〉、〈ダブル・オー・ボー(Double O Bo)〉のように皮肉と捻りがたっぷりのアイロニー、〈ベイビー・レモネード(Baby Lemonade)〉や〈暗黒の世界(Dark Globe)〉のようなダークな心の襞に分け入った世界、〈天の支配(Astronomy Domine)〉や〈第24章(Chapter 24)〉などノーブルな象徴主義詩とシンクロした世界、〈興奮した象(Effervescing Elephant)〉や〈ジゴロおばさん(Gigolo Aunt)〉、〈ウルフパック(Wolfpack)〉のごとく「凶暴なメルヒェン」を現代に蘇らせた作品、〈マチルダ・マザー(Matilda Mother)〉や〈タコに捧ぐ詩(Octopus)〉、〈ラット(Rats)〉など迷宮的に入り組んだアナザー・ワールドの物語――こうして列挙してみると、シドの詩的世界は、まったくとんでもない「イマジネーションの綺想体」であることがわかる。
ちなみに、ロブ・チャップマンの精密も極まれる「序文」(シドのキャラクターが憑依したかのようにファナティックでアグレッシブな解析!)にも詳述されているように、文学青年だったシドの作品には、いわゆるパスティーシュ(模倣技法)が氾濫しているわけだが、それがけっしてありきたりな「なんちゃって詩篇」に堕すことなく、とほうもない言語的スリルを生み出すに至っているのは、天才的と言うしかないシドの表現力に拠るものだ。そこに、生まれつき備わっていたシナスタジア(共感覚)が、こうしたイマジネーションの飛翔をさらにバーストさせた一面もあったに違いない。
だから、ケネス・グレアムやヒレア・ベロック、ルイス・キャロル、エドワード・リア、J・R・R・トールキン、さらにはシェイクスピアやジョイスまでの影響(時には、あからさまな剽窃?)まで取り沙汰されようとも、この52の詩篇には、そんなパスティーシュがどうのこうのという次元を遥かに超えた、唯一無二のオリジナルなスリルが炸裂しているのだ。それこそが、言語表現者としてのシド・バレットの凄みであり、矜持である。
とはいえ、シドの「詩篇」は大きく英文法をはみ出したレトリックがふんだんに用いられているし、原文のままネイティブスピーカーが読んでも意味やロジックが一貫していないものが多く(いわゆるシュールリアリスティックな自由詩法とかナンセンス詩法めいた、言ってしまえば言葉遊び的なもの、意味の通りよりも押韻の面白さを優先したものも多々ある)、和訳する際の解釈は、その多くの「詩篇」でたいへん悩ましいものがある。また、無理やり意味の通りだけ優先して辻褄を合わせようとすると、日本語のみで読んだときに、まったくつまらないものになってしまうリスクもある。
そのため、できる限り意味が通じるところは誠実に解釈するよう試みながら、同時に、和訳だけを読んだときにも原詩のスリリングな面白さを連想することができ、シド独特のグルーヴを感じられるように最適な着地点を探ってみた。とはいえ、筆者の翻訳実力の限界もあり、どこまで成功しているかは読者の判断に委ねるしかない。もろもろのご指摘は、甘んじて謙虚に受けとめようと考えている。願わくはこの翻訳詩集が、シド・バレットという稀有な普遍性と永遠性を持ったエクスクルーシヴな表現者にアクセスする、ささやかな「踏み台」となってくれたら幸甚である。
2023年10月
茂木信介
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