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開店日記と創世記 -序-【古本屋開店日記:番外編】

おめでとう、世界。

開店準備中の小樽は銭函エリア、春香山のふもとからお送りする古本屋開店日記。今回は初の番外編ということで、DUAL BOOKs店主の故郷、鹿児島に向かう途中の機内からお送りしております(が、実際に投稿できたのは銭函に帰ってきてからでした)。

さて、開店日記といえば「この世界にあたらしい世界、お店がインストールされる過程を記録するもの」のことですが、それはつまり「この世界にこの世界というものが誕生する過程を記録するもの」との相似性が極めて高いと言えるでしょう。

などというのはただの “こじつけ” でして、今回は、「最近のわたし、旧約聖書の創世記にはまってます」というだけのお話。その手のお話は雑記レベルのブログ「たそがれパラダイス」に書けばいいじゃないか、とも思うのですが、なんというか、せっかくnoteを活用して古本屋の開店日記をまとめている日々なので、準備準備またまた準備な日々だけでなく、本屋っぽいこともnoteの中に残しておこーかなー と、そう思ったのです。

なぜ、旧約聖書の、創世記なのか。これは、とても単純で愛らしいきっかけでした。近所にドイツ人の家族がおりまして、その旦那さん(仮名:ポールさん)がキリスト教の牧師らしいのですが、教会を象徴とする「定められた枠組み」に窮屈さを感じてらっしゃるお方のようで、どうやら「一般的な布教活動」を全くしていないご様子。で、このポールさん(仮名)、旧約聖書の創世記がとても好きなんだと。で、その大好きな創世記についてご飯でも食べながらラフにお話ししましょー、という会が、これまた別の友人宅でひらかれまして、私たち家族も誘っていただいたのでした。ちなみに、ポールさんはスノーボードのインストラクターとして子ども向けのレッスンから海外プロスノーボーダーのアテンド・通訳まで幅広く活躍されています。さらには、サーフィンからオフロードバイク?(マウンテンバイクで山道ごりごりいくやつ)もお好きな方で、牧師感はまったくありません。あるとすれば「無垢な笑顔」ぐらいでしょうか。そんなボールさんが、創世記について、なにが、どこが、どんなふうに、おもしろのか、を教えてくれたのでした。

さて

私たち家族と言えば、旧約聖書と新約聖書の違いも知らない始末なので、ただただ「へー、おもしろーい」という感じだったのですが、「世界の原初の物語」という意味では、日本を含め各地の神話との親和性もめちゃくちゃ高いし、「フィクションの共有」「詩・リズムという普遍性と伝播性」という視点からも興味深いし、「世界のはじまりのカタチについての神話と科学の類似性」も感慨深い とあって、話はあちらこちらにとびながら大いに盛り上がったわけです。

さてさて

こうなってはいよいよ実際に創世記を読みたくなるのは当然のこと。ただ、ここで問題が生じます。ポールさんに教えてもらったところでは、元来ヘブライ語で書かれた旧約聖書が、ギリシャ語やラテン語、スペイン語、イタリア語、もちろん英語をはじめ各国の言葉に訳されてきたわけですが、その過程でいろいろなズレが生じているとのこと。で、私は日本語しか読めないので、そのズレにさらに拍車がかかるわけです。簡単にいえば、それは世界レベルで時間と空間をかけて磨かれてきた、場合によってはすり減ってきた、「解釈の掛け算」の残滓しか手には入れない、ということです。もっと味気なく言えば「日本語で読む旧約聖書に、その元型・精神・世界観がどれほど残っているのかは、甚だ怪しい」ということです・・・・だとすれば、やれることは限られます。

「解釈の掛け算」をそのまま感じるしかない。

旧約聖書に限らず、「ほんとのところ」とか「最初のカタチ」というものを厳密に求めようとする行為は、学術的にはとても意義深いですが、現実的にはあまり意義を成しません。「これがほんとのところです」と、自分自身で証明・確信することは(それこそ学者的に時間と知識と経験を捧げない限り)不可能だからです。しかも、どれだけ膨大な時間と厳密な検討を重ねたところで、「自分は、強く確信した!」という「認識の枠組み」を出ることはできず、結局のところ「ま、ほんとのところは神のみぞ知る、なんですけどね」と言うしかない無限ループから脱出することはできない。
そんなわけで、ほとんどの人が、誰かの解釈に依って「これがほんとのところらしい」と「思う」しかない。つまり、「信じる」という行為 です。こうなると、今度は「解釈Aを拠り所にする人」と「解釈Bがいいなと思う人」、「いろいろ思うところがあるけれど、解釈Cを信じることにした人」といった、多様な信者が生まれて、場合によっては喧嘩になります・・・。

で、これを喧嘩させずにただ横一列に並べて、いや、できれば車座でまーるく集まってもらって、それぞれのお話を聞いてみると・・・「え、ていうか、それ、一緒じゃない? 解釈のカタチがちょっと違うけど、その解釈しようとしているもの、お互いに一緒だよね?」とか「あー、それはお互い全然違うね。同じところからはじまっているのに、全然違うのはなんでだろうね」みたいなことが見えてきます。そんな対話(dialogue)を通じて、新たな解釈Dに昇華(Aufheben)できればそれはそれで素敵なことですが、その解釈Dすらも、その他のEやFとの間で延々と同じことをしないといけない・・・これは、人々の認識や解釈が螺旋状に上昇していくとても素敵な様相ですが、時間がかかりすぎて気が遠くなります。

そんなとき

ワタシは「いろんな解釈をまるっと眺める、そのまま感じる」ということを試みます。もう少し具体的に言えば「同じことについて複数の角度から眺める」ということです。普通。めちゃ普通です。普通のこと言うために、ずいぶん遠回りしましたが、このような「世界を認識するときの枠組みとその呪縛。それらを踏まえた前進」あるいは「大事なことなのに正解なんてなさそうなこと」への態度は、ワタシの読書・選書においてとっても大事にしていることなので、熱くなってしまったようです。

図で言うとこんな感じ(しつこいw)。

複数の解釈を並べると見えてくるナニカ

いろんな角度のものを位置づけてみると、真ん中に「空白なのに形を帯びたナニカ」が見えてくる。それは明確なものではない。でもそこにはナニカが在る。それを感じることができる。明確な点では書けなくても、複数の解釈が「交わっているコト」を感じることができる。それが、ワタシが本という解釈の泉に見る景色であり、ワタシが感じていたい世界のカタチなのです。

どどん。

いかがでしょうか。しつこかったですねー。お陰で、実際の「創世記」の話も、それにまつわる本の話も、全くできませんでした。本屋よろしく、本の紹介でもしてみようと思ったのに、ただワタシの価値観を記述するというego日記になってしまいました。そんなこともあろうかと、タイトルに -序- と付記しておきましたが、はたして続きが書けるでしょうか・・・ま、どちらもでよいですね。

はい、今回の、DUAL BOOKs がお送りする古本屋開店日記【番外編】はここまで。次回は本編に戻りまして、トイレも使える、珈琲も淹れられる、そんなお店からお送りします。それではまた、素敵な日々の素敵な隙間でお逢いしましょう。Chao!

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