「公募のことは考えない」という選択肢。(公募小説の話)
「3時のおやつ」の理に適いっぷりは異常(挨拶)。
と、いうわけで、不二川です。
ローマ字すら読めない後期高齢者に、「これからの時代は英語ガー」などと説教を食らいたくないとつくづく思う今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今回の記事は、「立ち止まれ!」とかいった話です。
前回までのあらすじ
さて。昨日、一昨日と、呟きでお茶を濁させていただきました。切実にネタがなかったもので、皆様におかれましては、生温かい目で見続けて頂ければ幸いです。
実のところ、今日も、4週間に一度のハローワークへ行った、と言う以外、さして身辺に何らかの出来事があったわけでもねえです。
誰だって、「右手のささくれが塞がったかさぶたを、ガリガリ掻いていたら、皮がめくれて出血した」とかいう話をしたところで、「で?」とは思われるでしょう。
だいたい、当noteの、僕のフォロワーさんのタイプからしても、そういうクッソどうでもいい話は、意味がないと思われる。
まあ、毎回創作関連の話をするというのも、それはそれで結構しんどい物ではあるのですが、やはり、求められる物は書かねばなりませんからね。
ここ数日のこと
そりゃあもちろん、年末特有のバタバタ感にブン回されているとか、親に付き添ったり、あるいは家事を下命されたりと、現実的な問題で、思うように時間が取れない! というのもあるのですが。
ここ数日、公募のことを、ほとんど考えていないんですよね。いや、確かに、常に頭の片隅では、次回作のことを考えてはいる。なんなら、次々回作のことも。
ただ、執筆の前段階に(僕としては)特有の、すごい高揚感というものが、感じられない。
そう。「書かずにはいられない!」という、ひょっとしなくても、「待て」を知らない、駄犬的衝動。それがない。
何のために書くのか?
と、深そうな謎ではありますが、自分の中で大きいのは、「意識の変化」だと思うんですよ。
なるほど、これまでは、「書きたい物を書いて、目についた懸賞に送る」という、さながら、目隠しをして適当に銃をぶっ放すようなことをやってきました。
当然、そんな場当たり的なことをやっていては、賞のカラーに合わないようなこともあるでしょうし、あまり好きな言葉ではありませんが、非効率に過ぎます。
今年の夏を境に、ハリウッド式の作劇法を勉強し、その上で、一般文芸の賞に、舵を切り替えることにしました。ラノベ以上に、賞の傾向などの、事前リサーチが重要になってきた。
やっとと申しますか、僕も、「まずターゲットを決めて書く」、そして、「ある程度の理詰めで考える」ようにはなった、とは思います。
ただ、これまでの、少なくとも4年間、「オレはやるぜ、オレはやるぜ!」という、最も悪く言ってしまえば、脊髄反射で公募に挑み続けていた。
それはそれで悪いことだとは思いますが、僕的に重要な、「これが書きたいんだ!!」という、「核」が、次回作、及び、次々回作においては、今のところ見つからない。
クリティカルエラー
なるほど、教本に沿って、あるいは、ブレイク・スナイダービートシート(BS2)に沿って、「それっぽい」プロットは切った。「一般的な展開としては」問題はないはず。
しかしながら、「なぜ、これをわざわざ、小説で書くのか?」その命題が、大変ぼやけている。そりゃあ、こんな調子じゃあ、本文を執筆したところで、その作業は、苦痛でしかないと思われます。
そして、そんな「楽しくない」過程を経て生まれた作品が、面白い道理がない。
時折しも、KADOKAWAの「小説野性時代新人賞」の選考委員でいらっしゃる、道尾秀介先生のコメントに、こんな一文がありました。
重いお言葉です。
小説「で、なければならない」理由。それすなわち、「なぜ、それを書かんとするか?」という動機です。
それが、今のところ分からない。これは、かなり致命的だと思います。
しかし、待てよ?
確かに、僕のルーツは演劇ですから、舞台映えするような台詞回しもしますし、メディアミックスさせたいという、「シ」ケベゴコロもあったりはします。
ってか、書き手なら、受賞した後に、自作が映像化されたなら、それはそれで嬉しいはず。逆に、1ミリもそんな願望がない! という、ストイックな書き手って、いるのでしょうか?
これを書きながら、改めて考え直しているのですが、メディアミックスさせてナンボの昨今において、小説「で、なければならない作品」というのは、果たして、あるのか?
そうは腐してみるものの、やはり、僕自身の次回作、ないしは次々回作において、「その条件」を、仮に取っ払ったとしても、「確たる動機」が、やはり曖昧ではある。
言わば、「マニュアルを与えられたから、適当な素材で、とりあえず組んでみました」的。
きっとそれは、「オリジナリティの欠如」なのだと思います。何も、突飛な設定を盛り込め、と言う意味ではない。「自分が」それを「書く意義、意味」とも言えるでしょう。
百歩譲って
次々回作は、「多分、こんなことを考えるのは、俺ぐらいなもんだろう」という、変な自信があります。しかし、そっちはそれで、話の構造は組めても、もっと根幹的なところで、現在止まっているのですが。
問題なのは、次回作。意気YO! YO! とプロットを切って、添削にまで出しましたが、改めて思い返すと、あまりに凡庸な気がしてならない。
繰り返しになりますが、「これを書く意義、意味」が、非常に曖昧模糊としている。こんな状態で無理矢理書いても、賞レースを戦える物になるはずがない。
さりとて、こりゃまあただの貧乏性ですが、スパッと全ボツにもできない。何か、どこかに、「自分らしさ」を盛り込まなければならない。
ワガママの程度
理詰めも大事ですが、少なくとも僕の場合、「そういうこと」なのだと思います。逸脱のしすぎはもちろんダメですが、敢えて言えば、「枠内で、可能な限り弾ける」こと。
ワンシーンでいいんですよ。「ここを書くために!」という、「動機」、あるいは、「許されるギリギリのワガママ」。
幸い、時間はまだあります。少しぐらい予定がずれたところで、致命傷にはなりません。「核」が見つかって、いったんスイッチが入れば、どうせ、2~3週間程度で、10万文字は書けるでしょうし。
空白に感謝
今、この時。公募原稿のことは考えていないわけですが、内省の時間が確保できたと思えば、あながち悪い話でもないとは思います。
小説は、流れ作業で組み立てられる、工業製品ではありません。
「そのように」考えていた自分を、深く恥じると共に。
つまるところ、「落ち着け」という、極めてありふれたアレ。
アレって何だ。
んじゃまた。