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ふと、また純文学が書きたくなる。

 消費期限をかなり過ぎたミネラルウォーターを飲んだのですが、腹に来ないか心配です(挨拶)。

 と、いうわけで、不二川です。

 今日の午前中は、糖尿病にかかる内科での定期検診、しかも、朝絶食での精密検査だったのですが、帰ってきた時点で、既に1日が終わった気がする今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 今回の記事は、「なんか、純文学な気分?」とかいった話です。

最近の僕氏

 昨日は、定例の精神科通院日でした。相変わらず、朝に起きられないことを、主治医の先生に訴えましたら、寝る前のレボトミンが、20mgから10mgに減りました。

 慎重を期すならば、15mgにしてもよかったのですが、まあ、フルニトラゼパム(サイレースのジェネリック)も飲んでいることですし、眠れなくなることはないだろう、という、主治医の先生の意見もあったので。

 結果的に、今朝は、希望通り、結構早く目が覚めました。ちょっと早すぎる感もあったのですが、レボトミンの鎮静作用が、身体に残っている感じ(怠さ)がないのは、かなりありがたいです。

寝る前のこと

 さすがの僕も、これをご覧の皆様が、夜に寝る前に、それぞれ、寝床の中で何をお考えか? までは分かりません。

 ただ、昨日の僕は、電波的に、「また、純文学作品が書きたい」と思いました。もしかしたらそれは、「厳密なストーリー構成の、必要性からの逃避」なのかも知れません。

 とは言え、純文学であれ、エンタメであれ、同じ「小説」である以上、最低限、抑えるべき点があるのは同じ。その骨組みナシで書いたなら、それはきっと、ただのエッセイになるでしょう。

 僕が書く以上、私小説ライクなモノになるとは思うのですが、それにしたって、ログラインは必要でしょうし、プロットも組む必要がある。しかし、「昨夜の時点では」、なんか、肩の力を抜いて書けそうな「気がする」。

定義は?

 純文学。個人的な解釈としては、「言葉の芸術」です。徹頭徹尾、もったいつけた言い回しにする必要はないと思いますけど、所々、砂金のように「キラリ」とする箇所があれば、それでいいのでは? と、「個人的には」思います。そういう表現って、ラノベとか、普通のエンタメジャンルだと、まず「不要なノイズ」として扱われる気がしますからね。

 残念ながら、僕には、特に秀でた美的センスはないです。美術館で絵画を鑑賞しても、「へえ」以上の感慨を持てない程度ですから。

 とは言え、「何かを美しく思う」感覚すらもないか? と問われたなら、さすがにそれは違います。

 空の青、水の清廉、風の透明、木々の緑。「綺麗」と思う気持ちを、いかに「言葉」にするか? そこがきっと、腕の見せどころなのだと思います。

舞台は?

 昨日の夜、一際鮮烈によみがえってきた記憶は、6月に参拝した、サムハラ神社奥の宮のことでした。こちらでも、記事に書かせて頂きました。

 あの経験は、かなり貴重でした。いかに昨今、サムハラ神社奥の宮への参拝が、スピリチュアル界隈で人気になっており、結果的に僕も、「そのうちの一人」であったにせよ、いい旅だったことには変わりがない。

 これを題材に、何か書きたいな……とは思うのですが、単に、行った事実を述べただけでは、それはやはり、エッセイでしかない。

 主人公(=僕)を、その場に配置してみて、どこがどう、「ドラマ」にできるか? なんぼなんでも、昨日の今日で浮かべば、苦労はないわけですが。

ぼっちの悲哀

 ドラマがそれたりうるために、簡単(?)なのは、他者との関係性を描くことです。記憶の限りだと、西村賢太の『苦役列車』にしても、「主人公以外」の人物が、ストーリーの中で、その主人公に影響を与えているわけですし。

 一人旅を描写した小説、と聞いて、次に思い浮かぶのは、太宰の『津軽』なのですが、あれにしたって、様々な「他者」が出てきます。そこが面白い。

 翻って、僕。ひたすら一人でした。道中、会話を交わした相手と言えば、せいぜい、美作加茂駅から、サムハラ神社奥の宮へ向かう際に手配した、タクシーの運転手さんぐらいです。そこから全てのドラマをひねり出すのは、かなり無理がある。

 まして、道中にロマンスの気配があったわけでもないです。川端康成の『伊豆の踊子』みたいに。

ではどうする?

 この記事を書きながら、いっそ、「中年男の、徹底的な孤独」を書いてみてはどうだろう? と、思いました。孤独をこじらせて、もはや神にすがるしかない、哀れな男の一人旅。ひたすらの、内省のひととき。あるいは、神を前にしたときの、達成感と、静かな心境。

 間違っても、ドラマチック、ではないかも知れない。しかし一方で、「血沸き肉躍る純文学」というのも、明確に違う気がする。

 軽く、太宰の作品をいくつか読んで、参考に出来ればなあ、と思いました。ふと、脈絡なしに『桜桃』が頭をよぎったのですが、アレも要するに、夫婦ゲンカから逃げて、サクランボをやけ食いする太宰本人の話ですよね。

 それが文学たり得るなら、孤独を内省する作品も、「アリ」ではなかろうか? 知らんけど。

簡単ではない

 当然でしょう。純文学を書く、というのは、「己の内からわき上がるものをすくっていく」作業です。過去、純文学の賞には、3回応募したことがあります。ぶっちゃけ、初回はノーカンに等しいので除外すると、2回とも、非常に苦労した覚えがあります。50枚を書くのさえ、10万文字書くのと同じか、それ以上の労力がかかりました。

 私小説を応募するとなると、「文學界新人賞」なのですが、直近の締め切りは、今月末。なんぼなんでもタイト、つうか、今から書き始めたなら、まず無理。「群像新人賞」にしても、10月15日ですから、恐らく無理。

 そもそも、作品の長さ的に、50枚を超えれば上等レベルですから、その枚数を受け付けてくれるのは、「新潮新人賞」しかない。過去、当該懸賞において、私小説が受賞した経歴はなかったはず。前例がなければ作ればいい、とは申しますが、そんな大言壮語の吐けるはずもなく。

しかし、書きたい

 結局の所、その気持ちを大事にするしかないんじゃね? とか思います。皆様におかれましては、生温かい目で見守って頂ければ幸いです。

 んじゃまた。

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不二川巴人
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