自己紹介の続きなどをつらっと。(ジャブを数発)
腐っても元ライターに、ヒマを与えるとどうなるかをご覧に入れましょう(挨拶)。
と、いうわけで、フジカワです。昨日『はじめまして』のご挨拶を書かせて頂いたんですが、自己紹介としては今ひとつ情報量が足りなかったかなー、と思いましたので、その辺の追記などを。実はこの下書き自体、昨日の夕方から書き始めていまして、結構熟成させてるんですが、それはそれ。
えーっと、まず、住んでいるところが兵庫県の伊丹市であることは書きましたが、伊丹市というのは、『清酒発祥の地』です。同じ事を標榜している自治体は他にもありますが、おらが町伊丹こそが本家であると断言出来る理由は、きちんとあります。
お手元に古語辞典をお持ちの方は、『伊丹諸白(いたみもろはく)』を引いてみて下さい。バッチリ載っている上、江戸の昔は、『痛み入る』に引っかけて、「これはお礼で伊丹諸白」などとも洒落たそうです。歴史が違うのですよ。ひれ伏せ(何様?)
伊丹市は、地味に有名人を輩出しているところでもございまして。例えば、作家の故・田辺聖子先生なんかもそうですし、現東京都知事の、小池百合子氏も、僕の選挙区出身です。親曰く、「近所の公園の掃除にも、(小池さんは)よく来てた」とのこと。僕自身も、各家庭に支援のあいさつ回りをしていた昔の小池さんと、玄関先で握手をした事があります。ただし、その小池さん、地元の支援者に何も言わずに郷里を離れたので、相当悪評をもらったそうですが。
後は、現ニューヨーク・ヤンキースの『マー君』こと、田中将大投手と、日本のプロ野球界では、現在巨人でバリバリやってる、坂本勇人選手は、同郷、かつ、僕の小学校の後輩に当たります。僕自身は、野球にはあんまり興味がないんですけれども、ニュースなんかで活躍ぶりなんかを見ると、やっぱり誇らしくなります。
家族構成は、母親(81歳)と、(50歳と53歳の)姉が2人。父親は、約10年前に亡くなりました。真ん中の姉は随分昔に奈良へ嫁に行って、一番上の姉(独身)は、少し前に滋賀へ転勤しましたので、今は母親と2人暮らしです。僕は末っ子の長男なので、僕が結婚しない限り、本家の血が途絶えるんですが、多分もう、どうにもならないと思います。ご先祖様には悪いですけどね。
次に、僕自身の性格について。一言で言えば、オタク気質です。ただ、四六時中マンガやアニメに耽溺してるかと問われれば、全然そんな事はないんですけど。昔はともかく。ゲームも全くやりませんし。
卒業した大学は、神戸にある、甲南大学です。文学部社会学科(現在の社会学部)で、臨床心理学を専攻してました。半年留年しましたけど(苦笑)。しかし、心理学をかじった人間が、後に精神を徹底的に病むというのは、いかなる皮肉か。ちなみに、創作活動を始めたのは、大学在学中からです。
なお、大学では、わずか1年半ではありましたが、演劇部に所属しておりまして、それが、後々の人格形成に、メタクソ影響を及ぼすことになります。当時は、小劇場ブームのまっただ中でしたから、鴻上尚史氏の『第三舞台』や、野田秀樹氏の『夢の遊民社(後のNODA MAP)』などに感化されまくりました。俗に言う『小劇場病』です(笑)。
今にして思えば、無謀を通り越して滑稽なんですが、その当時はかなり真面目に、『将来は役者になりたい!』と思ってました。謝れ! 本気で目指してる人に謝れ!
余談ですが、13歳の頃、某声優養成所のオーディションを受けて、合格したこともあります。ただ、いざ合格通知を目にすると、急に臆病風に吹かれて、結局養成所には通わなかったのですが、あの時、変に尻込みしてなかったら、もしかしたら、僕は声優になっていたかも知れません。
また、90年代に青春真っ盛りだったため、バンドブームの洗礼も受けましたね。THE BLUE HEARTSとアンジーと、(出会った時期はずれますけど)筋肉少女帯は、音楽的嗜好から外せません。あ、『ステルスメジャーアーティスト』こと、平沢進師匠は、中学時代からずっと聞いてます。筋金入りの『馬の骨』です。
で。新卒後、大阪は江坂にある、某システム開発会社に(ド文系であるにも関わらず)プログラマーとして採用されたんですが、わずか1年でドロップアウトしました。骨の髄まで文系の身に、そもそもからして無理だったんですよ。この辺は、語ると長くなるので、今は割愛します。
その後、数ヶ月のプー太郎期間を経て、たまたま大阪のハローワークで見つけた(本当)尼崎のゲーム会社のシナリオライターの求人に応募し、採用されました。
どっこい。その会社が、わずか2年で解散してしまい、僕は再度路頭に迷ってしまいました。そんな僕を救ってくれたのが、名古屋にあった別のゲーム会社でした。当時の社長に気に入られて採用され、僕自身も名古屋へ引っ越して、そこで2年間勤めました。色々あって、クビにされたんですけどね、はっはっは(乾いた笑い)。僕が大元のうつ病を発症したのも、その名古屋の会社で、ディレクターと言う名の中間管理職をやってたからです。
名古屋の会社を退職後は、フリーランスのライターとして独立しました。26歳の時の話です。一時埼玉とか東京に住んでたこともありましたけど、最終的には実家の伊丹に戻って、しばらく仕事してたんですが、先に述べた通り、精神の病が悪化の一途を辿り、うつ病が統合失調症になった末、精神病院への入院(閉鎖病棟にもいました)とかもありましたし、いろんな要因が重なって、業界内的にも仕事を干され、精神障害者手帳の交付がトドメとなって、ゲーム業界からは、スッパリ身を引いた次第です。それが40歳の時です。
ですから、僕のライターとしてのキャリアは、デビューしたのが24歳の時ですから、40-24=16年。いや、よくやってたもんだ(他人事風に)。
他の、僕の特徴的エピソードといえば、やっぱり大学の卒論は外せないかと。ゼミの教授が割とフリーダムな女史で、各種課題等もかなり自由に書かせて頂いたんですが、僕は卒論として、何を書いたか?
ズバリ、『自作の詩に、心理学的分析を添えたもの』です。ぶっちゃければ、詩集を作って、『卒論です』と言い張ったわけです。
『そんなもんで通るわけがないだろう!』と、恐らく皆様はお思いでしょう。ところがどっこいしょ、結果的にはそれが通ってしまい、8単位をゲットしました。いやー、今にして思えば、詐欺みたいなことで単位をかすめ取ったなあ、と。当時の教授には感謝しきりです。
まあそんなこんながございまして、現在、2週間に1回精神科に通いつつ、月に1回糖尿病の投薬も受けつつ、毎日が日曜日状態なんですけれども、なんせ精神病患者ですので、『暇=楽』ではないことだけは、皆様に強く主張しておきたいです。大げさではなく、僕みたいな精神病患者は、『存在すること』からして既に戦いですので。
昨日も触れましたけど、僕にとって『書く』ことは、レーゾンデートル(存在理由)です。飽きっぽい性格ではございますし、『頑張る(努力)』というのが嫌いな性格でもありますが、まあまあ、今後もだらりと読んで頂いて、気が向かれましたら、なにがしかのリアクションを頂ければ、僕はそれで満足です。
あ、そうそう。くだんの日記の販売については、もう少しタイミングを見計らうことにします。まずは僕の『こういう文章を書く奴ですよ』というのを、皆様によく知って頂いてからでも、全然遅くないと思いますので。
んじゃまた。
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