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〜ある女の子の被爆体験記9/50~    現代の医師として広島駅で被爆した伯母の記録を。

私の伯母は、15歳のときに被曝をした。広島駅の構内に停車していた列車の中にいた。その列車がまさに動いた瞬間、酷い衝撃を感じた。(75年前の原爆、医師が語る50日マラソン:2日目を参照ください)その時は、ガス爆発だと思い、呉駅へついた。

「おばあちゃんはどうしているだろう」 

ノブコはそのとき、広島でおばあちゃんと二人暮らしをしていた。その朝、

「いってらっしゃーい」

と声をかけてくれたおばあちゃんのことが心配だった。ノブコは、その夜は呉の実家に泊まり、「あぶないからいっちゃだめよ」という母の心配を振り切って、8月7日の早朝、ひとりで広島へ向かった。

ノブコは被爆時には幸い大きなけがはしなかった。痛いところもなかったせいなのか、ノブコの注意は周囲に向けられた。ノブコはしっかりと町を見てしまった。そして、広島の光景、音、臭い、その惨状が記憶に染み付いてしまった。ノブコ伯母さんは90歳の今も、明るい元気な人だ。そんな人が、今でも悪夢を見ては飛び起きるという。75年間、ノブコはおばあさんを探して歩き回った広島を忘れたことはない。

すれ違う人々

「かいたいちー、かいたいちー」
広島駅の2駅前で、列車を降ろされた。この先の線路は通れないという。海田市の駅で、乗客は全員降ろされた。
「2駅くらいなら歩ける。大丈夫だ」
駅で、ノブコの目の前を、ススで真っ黒な顔をして、ぼろぼろに破れた服をまとった人たちがゆっくりと通り過ぎていった。
あれは女の人なのか?こげた髪の毛は、細い針金が絡み合うかのように逆立っている。
「もしかすると、おばあちゃんかも‥」
顔をのぞき込んでみたが、皮膚が焼けて顔から垂れ下がっていて表情は分からない。ただ、残っていた皮膚の感じからは、おばあちゃんよりはもっと若い人だとわかった。
おばあちゃんと同じ背格好の人がいたので顔を見ると、もう顔から判別できそうもない。赤色と灰色のまだらな顔で、頬や顎から炭の仮面がぶらさがっているようだった。ただ歩き方が、おばあちゃんとは違った。足下には炭化した人の体が転がっていた。

ノブコがすれ違った人々は、熱線で焼かれ、爆風で倒れた建物の下敷きになり、そしてまだこの時は誰も気がついてはいないが、放射線に体を蝕まれている人々だった。


 

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