
自己肯定感の低さの原因【場面緘黙症】
こんにちは。
今週に入ってから、自分の生きている意味や価値について考えすぎて病んでいます。
一つのことを何日も考え込んで病んでしまうのは私あるあるです。
直したいんだけどなかなか難しい…。
さて、今回はそうやって考えている中で見つけたあることを書いていこうと思います。
なぜ、私はこんなに自己肯定感が低いのか。
この原因がわかりました。
生きる意味や価値について考えているとき、ネットで調べてみたりもしました。
そこで、ある言葉を知りました。
それは無価値感です。
わかりやすくまとめているサイトがあったので共有します。
大失敗をした後、自分を責めてしまい、「自分は必要のない人間だ」と感じる人がいます。このように、自分に生きる価値がないと感じることを無価値感と呼びます。自己肯定感の真逆の感情です。大きな挫折や大切な人を失った時に一時的に感じることがありますが、健康な人ならば普段は感じることはありません。
無価値感は、うつ病の症状として現れることがあります。これは、思い込みや被害妄想に分類されるもので、病気になるまでは自分の価値について考えなかったような人が、「自分は罪深い」、「生きている価値がない」と自分を責めてしまう状態です。
ところが、うつ病とは診断できないのに、子供の頃からいつも「自分は必要がない、いらない存在だ」と考えてしまう人もいます。心の中には、つねに自分を否定する感情がうずまいていて、そのために生きづらさを感じている人です。無価値感が染みついてしまった原因は、子供の頃の否定された経験の積み重ねと考えられます。
私はうつなのでその症状なのかと思いましたが、うつになる以前から無価値感があったので、過去の経験からだと考えました。
じゃあ、その経験って何?
そう考えてみると、ある経験が頭に浮かんできました。
小学生時代に話は遡ります…。
ある授業で何回か班になってグループワークして発表するというのがありました。
しかし、私は場面緘黙症の症状から何も発言ができませんでした。
何回目かのある日、班のメンバーの一人が休んでいました。
すると、別の一人のメンバーがこう言いました。
「今日は一人休みだから三人だな」
すると、もう一人が、
「実質二人だけどね(笑)」
と言いました。
これはつまり、私は何も発言しないからメンバーに含まれていないという意味の発言です。
私は深く傷つきました。
これはトラウマすぎてたびたび思い出して病んでしまいます。
トラウマは他にもたくさんあります。
以前noteに書きましたが、授業中、先生の話に笑っただけで「〇〇さんが笑った!」と先生に言われてクラスメイトから注目を浴びた経験があります。場面緘黙症は行動にも症状が出るので、普段笑うことが少ないから珍しかったのでしょう。これもトラウマでよく思い出してしまいます。
他には、小学校の卒業式の練習中にもありました。
卒業式といえば、
「楽しかった~」
「「「運動会~」」」
という風に、一人がセリフを言った後に全員でセリフを言う恒例儀式(?)みたいなのありますよね。
そこで私は、緊張で喉がキュッと締め付けられながらも、頑張って最大限の大声を出してセリフを言いました。
(場面緘黙症でもなんとか声を出すことはできました)
しかし、先生にとっては小さい声だったみたいで、学年全員の前で声が小さい代表として晒し上げられました。
小中高校生時代のトラウマは挙げたらキリがありません。
このように、自分が頑張ってやったことを否定されたり、普通に過ごしているだけで笑われたりした経験が、今の自分の自己肯定感の低さにつながっている気がします。
でも、これってよく考えたら場面緘黙症のせいですよね。
私は疾患を抱えながらも自分なりに頑張っていた。
そう考えたら少し気が楽になりました。
場面緘黙症って本当に厄介ですよね。
本人の意思に反して喋れなくさせてくるのですから。
少しでも場面緘黙症への理解が広まればいいなと思います。
今週はずっと病んでいましたが、このnoteを書いていたら少しマシになってきました。
少しずつ自分を肯定していって、無価値感から抜け出せたらいいなと思います。
少し長くなりましたが、最後まで読んでくださってありがとうございました。