トラウマと私②「私は全然、大丈夫じゃなかった」
さて、そんなふうに毎日をギリギリの状態で生きていると、
身体症状が現れ始めます。
これに関しても詳しい状態の記載は避けますが、毎日会社に行って帰ってくることが難しくなるような症状がいくつも重なり、休職をしました。
休職をしている間も、「この休職期間中に、今度こそ自分を直さなくちゃ」という焦燥感に常に追われているような感覚でした。
休めばいいのに、 “自分の問題を探し、それを解消しようという作業”をやめることはありませんでした。
迎えた限界
職場に復帰してからも、体調は良くなったり、悪くなったりしました。
自己分析という名の自己批判は続いていきます。
けれど、やはりどこかで限界を迎えていました。
「もう、このまま生きていくことはできない。誰にも言えなかった苦しみを、誰かに聞いてほしい、一人でいいから、誰かに、わかってほしい。誰かにわたしを、見てほしい」
そう、思うようになり始めます。
そこからわたしは、意を決して、専門家のサポートを求め始めました。
自分一人で本を読んだりワークをするだけじゃなくて、
人とのつながりの中で癒されたいと、初めて心から願い、そして行動に移しはじめました。
第三者のサポートを拒んでいた、その理由
今ならわかるのですが、
ここまで随分と長い間、わたしが断固として「他者からのサポート」を避けてきたのには、理由があります。
わたしの心の傷は、幼い頃、主に家族や親族等との「人との関係性」の中で負ったものです。
そんな私にとって、「人との関係」ほど、恐ろしいものはありませんでした。相手がプロのカウンセラーや、心理の専門家であっても同じです。
だからわたしは無意識に、人に自分の心や感情をさらけ出すことを頑なに避け、「自分一人で、なんとかしよう」としていたのだと思います。
いよいよ限界を迎えたことで、「誰かにサポートしてもらう」選択肢を選ばざるを得なくなったのですが、結果的に、この選択をしたことで、わたしは少しずつ自分を取り戻していくことになります。
(どのようなカウンセリングやセラピーやリソースを用いたのかについては、別の記事で詳しく触れようと思います)
「良いクライアント」からの卒業
カウンセリングに通い始めても、
初めのうちは「武装」を解くことはできませんでした。
カウンセリングの方向性を何となく察知し(あ、先生は多分、私にこう言ってほしいんだろうな。残り時間はあと10分だから、そろそろ会話を終わらせたいんだろうな、など)、先回りして、相手が望んでいる(とわたしが勝手に推測している)ことを言おうとしたり、「良い患者」「良いクライアント」を演じようとしたりしました。
いつだったか、ある臨床心理士の先生がふと、
取りつくろった、そしてどこか芝居がかった会話を続けるわたしに、
あたたかな、それでいて凛とした眼差しを投げかけ、こう言いました。
「○○さん(私)、相当、こんがらがっていますね」
意外に思われるかもしれませんが、その一言が、大きな癒しへのスタートになりました。
「ああ、わたしはカウンセリングの場であっても良い人を演じようとしていたけれど、この人にはちゃんとそれがわかっているのだ。わたしはもう、本当に、本当のことを、言ってもいいんだ」
そう実感したのです。
「見透かしてもらえている」という安心感、とでも言うのでしょうか。
その言葉をきっかけに、わたしは徐々に、あらゆるセラピーやカウンセリングの場で、自分の素直な気持ちを話せるようになりました。
この生きづらさは、「トラウマ」だった
そしてこの生きづらさを「トラウマ」と呼んでもいいのだ、と気付けたことも、癒しの道につながったように思います。
「トラウマ」というと、災害や戦争など、ある大きな出来事がきっかけでなるもの、というイメージがありました。
ですが、幼少期に、心から安心できる場を得られない状態が長期間続くことで被る、「発達性トラウマ」というものも存在するそうです。愛着障害や、アダルトチルドレンといった文脈で語られていることも、同じかもしれません。
上記は、トラウマを扱うセラピスト、花丘ちぐささんの言葉です。
発達性トラウマについては、花丘さんのこちらの本もおすすめです。
発達性トラウマの存在を知ったことで、
「わたしは幼い頃、災害や戦争や大きな事故を経験していない。それでもわたしの経験は、わたしの主観として、十分にトラウマティックだった」
そう、自分で認められるようになったと思います。
第三者にサポートしてもらう勇気を持つこと。
自分の苦しみを、他者と比較せず、そのまま受け入れること。
「わたしはちっとも、大丈夫じゃなかったんだ」
そう思えること。それが、スタートラインでした。