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『おいしいごはんが食べられますように』感想と妄想 ‐「食嫌い」の、原因?-

高橋隼子『おいしいごはんが食べられますように』を読んだ。この本についてとりとめなく語った記事である。形式の混乱あり、ネタバレあり、強い言葉あり、根拠の薄い妄想ありで、「何でも許せる人向け」だ。



読み終わったが、とてもモヤモヤするというか、嫌な気分。読後感は最悪。食べ物をテーマにしてるだけあって本能的というか生理的なグロさがある。それが人間関係という、社会性を含んだ嫌な問題に繋がるのだから嫌さは満点だ。

開始6ページでオッサンが若い同僚女性のペットボトルに勝手に口をつけており、この時点でキモさに戦慄、この小説の行く先を予想するとさらに恐怖。もちろんその後、期待というか心配以上のモノを見せつけられることになる。

まず二谷の”食”観だが、共感する人もいるのかな。僕はぜんぜんわからないというか、こうなったら人間として終わりだ、こうなりたくないという恐怖を含んだ願望か。でもそう思うのは、自分がこうなるかもしれないという思いが少しはあるからだろう。二谷の考えが絶対的に縁遠いものならば、こうなりたくないという拒否反応は起こさないはずだ。

正直、食べること自体は好きだが、ごはんがめんどくさいって思う時は、ある。同じ食材・ものしか買わない・作らない状態になってしまっているのがその証拠だろう。ただ僕のこれは思想的に闇が深いわけではなくて、単純に最近物理的に時間と労力をかけられなかっただけだろう。対処法というか処方箋として、阿川佐和子の食エッセイや長谷川あかりのレシピ本によって食思想を注入することで回復するだろうという手段も知っている。

だが二谷の場合は相当に根深い問題のようだ。なぜ彼が食を嫌悪しているのか考えてみる。彼の屈折し拗れ切った考えの原因を1つに求めることはもちろん不可能だろうが、少しでも寄り添ってみたい。

まず考えられるのが、精神的、思想的な問題というより、食に費やす時間・労力がなくて生活に馴染まないいう理由だ。
もちろんこれはあるだろう。68頁あたり、芦川さんの料理を食べる場面では「一時間近くかけて作ったものが、ものの十五分でなくなってしまう」ことを気にしているし、123頁から始まるモノローグでは、残業後料理に時間を使うと「おれの、おれが生きている時間は三十分ぽっちりしか」なくなることを嘆いている。

この部分を読むと残業が悪い、長い労働時間が余暇の時間を奪っているように思える。そしてそれはこの小説のもうひとつのテーマである仕事、職場の問題と繋がってくるのだが、それはさておき、労働時間さえ短くなれば二谷は食を楽しめるようになるのかといえば、とてもそうは思えないだろう。

つまり、やはり二谷の内面的な思想・感覚が、彼が食を敬遠する原因になっていることがわかる。もちろんそれを表す記述は数多くあり、さまざまな要因が複雑に絡み合っていることがわかる。「自分の時間や行動が食べ物に支配されてる感じがして嫌」、甘いものが苦手という嗜好、食べ物を介さないと成立しないコミュニケーションへの疑問、など。もちろんここには、自分に料理を作ったり職場にお手製のお菓子を持ってきたりする芦川さんへの感情、彼女との関係が大きく関わってくるのは言うまでもない。

芦川さんとの関係の話はいったん措いておくとしても、いったいなぜ彼はこのような“総合的食嫌い”とでもいうべき感覚を獲得するに至ったのだろう。

ここからは完全な妄想だが、僕は二谷の料理に関する基礎的な知識の欠落が気になり、彼の幼少期からの“食育”不足がひとつの根本的な原因なのではないかと感じてしまった。

彼の生い立ちが描写されるわけでもなく、彼の家族の食感覚が説明されるわけでもないので、根拠らしい根拠があるわけではない。だがにんじんの使い方がカレーしかわからない、そして「泡立て器」の名前すらわからないという風に、料理に関する知識、いや一般常識が身についていないという描写を見るに、彼の自我そして食べ物に対する感覚が育ってきたであろう家庭の様子を想像してしまう。

彼は幼少期から家庭で、手づくりの料理を食べる機会、身体を通して食や調理について学ぶ機会が充分になかったのではないか。その視点で考えると、146頁の、「食べる者の顔などわからない人たちが作った、正確な食べ物」である洋菓子店のクッキーを安心して食べる様子や、151頁の、メッセージプレートについた芦川さんの指紋、つまり手作りの痕跡を気にする様子が目についてくる。彼は家庭料理、つまり作る・食べる人が互いに互いを認知しており、手づくりしたことがはっきりわかる料理にどのような感覚を抱くのだろうか。

芦川さんの料理を食べていることから、食べれないほどの嫌悪感を抱いているわけではない。だがそれを食べた後、手づくりからかけ離れた、“不健康”な食べ物の象徴ともいえるカップ麺によって自分の食体験を“上書き”しているようでもある。

ここまで二谷の性質について、その遠因を彼の幼少期に求める妄想を繰り広げてきた。しかしこれはあくまで妄想であり、この説で説明しきれない部分もあるかもしれない。

この小説のテーマは、この記事で考えた二谷の“食嫌い”だけではない。働き方に対するそれぞれの意識の違い、恋愛を含めた職場の人間関係、高校生の部活の話や男性の文学部進学まで。さまざまな問題を含む小説であり何を感じとるかも人それぞれであろう、おもしろい小説だ。いろんな人に読んでほしいし、いろんな人の感想を読みたい。

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