定義なき自分らしさ
※このエッセイは、大学の授業で書いたものです。力作ができたなあと個人的に思ったので公開します。
あるアイドルグループのファンが、「推しがピアスを開けたのでもう応援しない」とツイートしていた。正直、ピアスぐらい許してやれよと思う。
そのファンはきっと「彼女はピアスなんか開けない」というイメージを持っていたのだろう。
しかし、芸能人のイメージなんてものは、しょせん我々が勝手に作りだしている幻想なのだ。
ツイートをそっとミュートして、イヤホンをつける。バスの窓際の席で音楽の世界に浸りつつ、僕は中学時代のことを思い出していた。
きっかけは、些細な同級生の一言だった。
「お前、背が小さいから、自分のこと俺っていうのは似合わん」
え、似合わないって何?一人称すら自由に使わせてくれないとか窮屈すぎない?
あの頃は、自分に勝手なイメージがつけられていることがたまらなく嫌だったのだと思う。
その日からの僕は、自分らしさとはいったい何なのかを深く考えるようになっていた。
そして、どうしたら自分らしくいられるか、あらゆる手を試した。
俺呼びは当然やめなかった。負けたような気がするから。
流行っている曲をあえて聞かないようにして、自らに尖りをつけた。
あとは、合唱で人よりも口の開け方を意識して歌うとか、授業での発表の回数を多くするとかをやった。
最終的には生徒会長に立候補したが、見事に惨敗した。
自分をアピールするために、色々なことに挑戦した。けれども、自分らしさを求める旅は、これといった成果もあげられずに終わりを告げた。
いつからか、周りに合わせることが普通になった。あれだけ流行りを避けていたのに、今では流行に敏感になっている。
きっと悪いことではないと思う。生きていくうえで、協調するのはもちろん大事なことだ。
しかし、心の中には今にも炎を吐こうとしている龍が、つまり、尖りまくっていた中学時代の「俺」が確かに存在しているのがわかる。
自分とはいったい何なのか?大学生になった今でも、答案は白紙のままだった。
「もしかしたらこれ、一生かけてもわからないままなの?」
そんな風に考えてしまう自分を、僕は許すことができない。
だって、自分のことは自分が一番わかっていなくちゃならん。いやあ、実に自意識過剰な男である。
さて、そんな自意識過剰ナルシスト男に転機が訪れる。それはあるアニメとの出会い。
「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」。
内容としては、虹ヶ咲学園という架空の高校で、九人のメンバーとマネージャーポジションの主人公が、スクールアイドルと呼ばれる学校内でのアイドル活動に携わっていくというものだ。
「ラブライブ!」はほかにもシリーズが展開されているのだが、この作品の大きな特徴は、メンバー全員がソロでアイドル活動をしていることだ。これはグループでのアイドル活動を重視した従来のシリーズとは大きく違っていた。
全員が同じ目標に向かうのではなく、メンバーそれぞれが別々の夢を掲げ、互いに応援しあう。斬新な設定だが、多様性が求められる今の時代に適した素晴らしいアニメだと感じた。
中でも特に胸を熱くさせられたのが、第七話で披露される「Butterfly」という楽曲だ。この曲の歌詞にこんなフレーズがある。
「それぞれの夢 それぞれのColorで 進んでいこう 自分らしくね」
この歌詞を聴いて、僕は憑き物が落ちたような感覚を覚えた。
涙腺のダムは徐々にひびが入り、見事に決壊した。
途中から大粒の涙で画面がぼやけて、どんな画が流れているかわからないほどだった。(あとでもう一度見返した。)
いいタイミングで最高のアニメに出会えた奇跡が、ちょっとしたヒントを与えてくれた。
結局のところ、自分が何者かなんて、誰も教えてはくれない。
「自分らしさ」とは、定義されるものじゃなく自ら導き出すべき答えなのだ。
きっとこれからも悩んで迷いながら、白紙の紙に自分なりの回答を刻み続けるのだろう。ときにエンタメにヒントをもらいながら。
どこか晴れやかな表情を浮かべながら、音楽を停止してバスを降りる。
スマホ画面には「Butterfly」の表示。
「ありがとうございました」
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