【随想#1】「読書について」
前回の投稿から随分と時間が空きました。ちゃんと書こうとすると、時間がかかるので会社が忙しくなるとなかなか、、もう少し肩の力を抜いて気軽に投稿できるようにしたいなぁ。
と言うわけで、今回は読書について、思うところをつらつらと書いていきます。結論とか特にないです!
1. 本には種類がある
本は手段であり、当然色々なタイプがありますね。メディアはメッセージであり、本特有の特徴あるでしょうが、いずれにせよ「本」として一括りでは語るのはさすがに雑かと。
最近、自分なりに考えている本の種類分けはこんな感じです。
友として
自分を変えるための読書。
友人と同じく少なくて良い。
何度も読める本を探す。
→ 古典を読めば十分。
自然科学
世界の理を知る。
→ 好奇心ドリブン。知りたい時に読めば良い。
情報収集
ビジネス知識・スキル、趣味等の獲得。
= 豊かに生きるため等を目的とした知識獲得。
→ 必要なときに最小の労力で終わらせる。
娯楽
映画などと同じ。本当に良い作品であれば、人生観が変わることもあるだろう。
→ が、基本は気晴らしで適度に嗜む。
「読書好き」って言うと「すごい」的な感じになりますが、結局どんな体験をしているかで全然意味違うはずなので一概にはすごいとは言えない気がします。「テレビ好き」っていったらすごいとはいわれないでしょう。読書マジックですね。「読書好き」というのは「活字に抵抗がない」くらいの意味で、読書を通してどんな体験をするのか?それが大事な気がします。
2. 積読
本読みの永遠のテーマ。積読。しかしこれについては自分は既に答えを出してます。
「積読だって意味がある。」
これファイナルアンサーです。
視界に入っているなら、その本のことは意識・無意識でも考える。もしパラパラとでもめくれば少しは頭に入る。本を契機に新しい考えや状態が生まれたなら、それも読書としてカウントできますね。精読だけが読書ではない。精読でしか体験できないこともあるけど、積読もバカにしてはいけない。
と、自分に言い訳してます笑
3. 読書への態度(自己啓発本について)
若い頃はいわゆる「自己啓発本」も読んでましたが、振り返って、この時間はもったいなかったなぁとしみじみと思うので理由を書いてきます。なぜ自己啓発本はよくないのか?
3-1. 理由①
よく言われることですが「古典の焼き直し」だからです。数千年では人間の特性など大きく変わりません。ほとんどの自己啓発本は、古典から食材を拝借して、現代風にアレンジして料理してる感じです。だったら料理人(著者)を通さず、古典を読んだ方が良い。消化はよくないかもですが、素材の味を直に味わえます。
また料理人の腕はぶっちゃけわかりません。美味しい料理が出るかもですが宝くじみたいなものですね。時間とお金が無限にあれば試すのも良いですが、時の試練に耐えた古典を読む方が間違いはないでしょう。
3-2. 理由②
読者の態度がダメ。個人的にはこちらの方がより重要と思います。自己啓発本を読むのは、おそらく現状の自分に不満があるからでしょう。幸せになりたい・楽になりたい、的な。
じゃあどうやったら幸せになれるか?環境を変えるか、自分を変えるか、あたりでしょうか。ここ大事なんですが「自分の変化」を促すのが読書の効用だと思うんです。でも多くの人はそういった意識を持たずに読書してると思います。
「確固たる自分」に読書を通して「知識をインストール」する。
多くの人の持つ読書イメージじゃないでしょうか?つまり「自分を変えよう」と思ってません。軽めの自己啓発本を読む人(=かつての自分)は「効率的にお手軽にノウハウを得て幸せになりたい」という態度で読書していたように感じます。つまり自分を変える気がない。それでは何も変わりませんよね?
だから本は読めども不安は変わらず、また似たような自己啓発本に手を出す、という悪循環に陥ります。
3-3. つまり読書の効用とは、
読前から「変化した自分になる」こと。
ところで自分の考えってそんな簡単に変化しますかね?これまでの人生で作り上げたモノがたった数時間で?多くの場合難しい。だからこそ何度も向き合うことが大事だし、向き合うに耐え得る本を選ばなくてはいけないのだと思います。
でも何より大事なことは読書への態度です。「変化」しようという態度で本に向き合うこと。読書の効用とは、文字情報だけではないと思ってます。「自分がその本に向き合う状態」を作り出すこと、それも大事な効用です。
3-4. もちろん、、
多くの著者や出版社は真摯に本を出しているのだから、その努力を否定するのもどうかなとは思ってます。たとえば活字が苦手な人が、苦境に陥ったとき自己啓発本の一節に救われることもあるでしょう。もし切実に変わりたいと思っているのなら、自己啓発本も一つの契機になり得ます。
別に読書がえらいわけではないし、活字以外で人生を変える方法もあります。それぞれ自分に合った方法で幸せを見つけることが大事。でも読書で自分を変えたいのなら古典へと進むべき、というのが多くの先人の一致した意見ですし、最近私も強く思うようになってきました。
4. 読書のアウトプット
「1. 本には種類がある」に書いた通り、本の種類や読書の目的によってアウトプット方法は当然変わってきますね。たとえば「友として」の読書なら、自分に変化があれば良い読書と言えるでしょうし、「情報収集として」なら目的によって適宜情報を整理すれば良いでしょう。娯楽ならアウトプットなんて考えず耽溺するとか。
4-1. 読書ログ
上記のとおり私の場合、読書アウトプットは本毎に異なるものの「読書ログ」だけは読書時に共通で書いています。
タイトル、著者、出版社、カテゴリ、購入日、読了日、値段
をnumbers(Macのエクセル的なアプリ)で1冊=1行で記録してます。
見返すと、
読了本の数がわかる
積読率がわかる
あの頃こんな本を買ってこんな本を読んだなぁ、と感傷に浸れる
といった効用があります。あと、金額を入れておくと、いくら使ったかもわかります。かれこれ10年つけており、いくら使ったかは知らない方が良い気もしたり。。
4-2. 読後のまとめ
以下の「読書」は「自分を変える」系統の読書に限定してます。
最近、本を「まとめる」ことに疑問を持つようになりました。本とはそれ自体で完結するものではない。過去の文脈に乗り、未来の本へとつながる「開かれた・繋がれた存在」それが本だと思うので。
自分にとって「まとめる」という行為は、開かれたものを閉じる感じがあります。「まとめる」ことでその本と自分との接続を断ち切り、頭から追い出してスッキリしようとしているような。
「読書」をするとは、行為というより状態なのではないでしょうか。アプリのように頭にインストールして万事OK!というものではない。本を読んでいる最中だけが読書ではなく、本によって頭の中に何かが喚起される状態が「読書」なのではないか。つまり、
自分の世界に「閉じる」状態から「開かれた」状態にすること
それが読書の効用ではないか。
とすると、楽になるため・読んだ証のための「まとめ」はかえって良くないと思います。もちろん文章を書くことで理解できることもありますがそれは、
「開いたまま」「他に接続するため」の文章
が良いでしょう。閉じちゃダメだ。
5. 参考図書
私の考えは以下の二冊に強く影響を受けてます。
有名な本ですね。要約すると、
といったところでしょうか。
本読みであればいつかは気づくことだとは思うのですが、早めに気づいた方が良いので読んでない方はぜひ。短いし論旨も簡潔です。
受身的な読書はどこで身に付くのでしょうかね。学校で使う「教科書」のせい?「本に書いてあることは正しい。理解できないのは自分が悪い」的な考えを無意識のうちに刷り込まれるような気がしてます。
自分を滅して書に従順せよ、的な?確かにその方が偏差値は高くなりますが、結果、考えない人が続出しているのが現代社会のようにも感じたり。
本を頭から後ろまで読んだって、「完全に理解」することはないだろう。読書の効用は、知識を得たり考えるキッカケ作り。だから「選ぶところから読書」というのも極論ではあるが正しいと思う。
日本の読書なら和装に緑茶とか。そういう形から入るのも大事。これは上記の「本を読む態度」に通じるものがありますね。
著者の「本はノートである」(と言っていた気がする)という考えのもと、色々な記号で本に書き込んでいくのを見るのも楽しいです。自分の書き込み方法もかなり影響を受けてます。
読書体験が変わったという意味で、そして読書は自分の人生において大きなウェイトを占めることを考えると、自分の人生に大きな影響を与えた本です。この本に出会う以前の自分の人生は体験できていないという意味で、出会った方が良かったのかどうかは永遠にわかりません。本って怖いなぁ。。
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