見出し画像

【好きろぐ#1】映画「名付けようのない踊り」

本以外のことでも日々自分の琴線に触れたことを紹介していこうかと思います。

第一回は公開中の映画「名付けようのない踊り」。まさに「名付けようのない」踊りをしているダンサー田中泯のドキュメンタリー映画です。個人的にファンというわけでもない(というかちゃんと彼の踊りを見たのは映画が初めて)のですが、映画の一場面に第一回noteの著者である松岡正剛が登場するとこのことだったので見てみました。

とても素晴らしい映画(踊り)でした。
まず何といっても田中泯という人物そのものが魅力的です。76歳らしいですが「こんなふうに歳を取りたい」と思わせてくれるイケ爺。生き様がそのまま彼自身に刻まれているような人物。踊りのときに見せる70代とは思えない肉体は本当に美しいです。しかも体は踊りのために作ってるのではなく、野良仕事で作った体だそうです。

「踊りにプロなどいなかったはず。昔は誰もがダンサーだった」のようなことを彼は言うのですが、たとえ思ったとしてもそれに徹して生きることは常人にはできないでしょう。思うことと実践することにどれだけ大きな隔たりがあるか痛感させられます。

彼の踊りは「場踊り」と言われるそうです。その場に立ち、感じるものを全身で表現する。生きることの表現の一つとして「踊り」が現れる、という感じ。「プロのダンサー」が「踊りを披露」して「観客が鑑賞して批評」する、という現代の鑑賞システムからはみ出してます。本人が言うにように、彼の踊りは、彼とその場・観客の間に作られます。関係性が踊りとして表出しているとも言えるのかも。「心の中ではみなと踊ってる」と。

創作をする人にも勇気(絶望?)を与えること言ってます。「個性的」なことをしている田中泯ですが、彼自身は「個性」には懐疑的らしいです。これまで1000億人ほどいた人類の中には自分と似たことをした人だっているだろう。そんな貧弱な「個性」に興味はないと。既に自然が驚異に満ちており、その場その場が一回切りなのだから、それを表現すれば良い。生そのものが驚異なのだから。自分を空っぽにして「その場」のままに動く。
彼のような傑物がそういうのですから、大多数と似たような生き方をしている人達が個性だ何だと騒ぐのは恥ずかしいですね。最近の「ビジネスにアートを活かそう」みたいなのに、個人的には気持ち悪さを感じるんですが同じ感覚かもしれません。

後半、田中泯の踊りと自分の心シンクロすると、確固たる「自分」がでーんと心の中心に居座ってる感覚がありました。ぜんぜん動けてない、踊れてない。心がすごい肥満体質になってることに気づきました。東洋思想に惹かれ「無我だ」と頭ではわかっても全然ダメだな、と。実践できてない。まずはこいつを立たせて踊らせてダイエットさせないと。ココロオドル。「自分」を削りただただ踊る生命。

踊りの最小限の表現は「ただ立っているだけ」。それだけで表現できないと、と言う彼の佇まいは本当に美しいです。ただ立っているだけで踊りになる。東洋思想に近い気もしますが、もっとプリミティブで荒々しい生命を感じます。

まぁ何にしろ映画見るのが一番です。
観る際の注意点は、外から「鑑賞」するのではなく、内に入り田中泯と「共踊」できるか。「共踊」したとき、単なるエンタメ消費でなく、人生における一つの経験に昇華される気がします。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?