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終末期医療の現場で日々感じる、死生観教育の大切さ【認知症#11】

こんにちは。くんぱす先生です。

内科専門医として臨床経験を積んだ後、介護老人保健施設の施設長を経て、現在は認知症疾患センターの認知症治療病棟医として勤務しています。


『死』のイメージ

皆さんは『死』に対してどんなイメージを持っていますか?

「怖い」
「考えたくない」
「自分には関係ないと思う」

いろいろなイメージ、考えがあると思います。
日本において、『死』へのイメージは少なくともネガティブなものだと感じますが、いかがでしょうか?
日本には古来から『死』に対して、『縁起でもない』という慣習があります。
「お母さんが死んだら、、」などと前もって死を予見するような考えはタブーとされています。
現に、「喪服を事前に準備しておくことはマナー違反」とされていますよね。

『終活』『ACP』という概念

『終活』
2009 年にある雑誌でタイトルとして提唱されたのがはじめてといわれている。
マスメディアが作った造語である。
それまではどちらかと言えばネガティブなものとして扱われることの多かった、死に関連したり付随する行動を「残りの人生をより有意義に楽しく生きるための活動」とポジティブに捉えて提唱したことなどが、多くの人に受け入れられる要因になったのではないかといわれている。

GOOD ENDING HPより

『ACP Advance Care Planning アドバンス・ケア・プランニング』
米国の医師らが2017年に提唱した概念
年齢と病期にかかわらず、成人患者と、価値、人生の目標、将来の医療に関する望みを理解し共有し合うプロセスのこと
ACPの目標は、重篤な疾患ならびに慢性疾患において、患者の価値や目標、選好を実際に受ける医療に反映させること
多くの患者にとって、このプロセスには自分が意思決定できなくなったときに備えて、信用できる人もしくは人々を選定しておくことを含む

厚生労働省HP第1回 人生の最終段階における医療の普及・啓発の在り方に関する検討会資料より


ここ数年にわたり、自分の残りの人生をどのように生きたいかを意思決定できるうちに意思表示し、信頼できる人と共有しておこう、という流れが浸透してきています。

そう、元気なうちにどのように死にたいかを考え伝えておくのです。

終末期医療の現場で感じること

私はこの流れが非常に大切だと感じています。
やっと、世間がこういった流れになってきて嬉しいです。

しかし、現場ではまだまだ浸透しているという印象はありません。

高度認知症で症状が進行し、食べられなくなった患者さんの今後の方針をご家族にお話しする機会が度々あります。
そんなとき、「老衰ですので、点滴や栄養法などの医療介入はせずにそっと苦痛なく最期を迎えさせてやりたい。」とはっきりと発言できる家族は少ないのが現状です。

まれにエンディングノートとして、元気だったころに「延命治療は希望しません」とご本人が意思表明されているというケースにも出会います。
しかし、いざというときに家族がその意思表明を覆すという経験もしました。
本人の意思が尊重されないことに対して、主治医として何度もご家族を説得することを試みましたが叶いませんでした。

本人の意思に反して行われる医療行為、延命処置は一体誰のためでしょうか。

他国での高齢者に対する栄養代替療法は?

北欧では、高齢で口から栄養を摂れなくなった患者に対して栄養代替療法(経鼻胃管、胃瘻、経静脈的栄養など)は積極的には行われていないといわれています。

日本とフランスの認知症治療に関する相違を論文にしたい、というフランスの学生と話す機会がありました。
フランスでは終末期高齢者の栄養代替療法は行われているのか質問したところ、ケースバイケースであるという答えでした。
日本ほど積極的に行われてはいないそうですが、全くないわけでもないそうです。

各国で倫理的配慮もされながら検討を重ねている議題なのだと思われます。

他国と日本を比較する上で、避けて通れないのが高齢者医療に対する自己負担額の違いだと思います。
日本は国民皆保険であり、高齢者の医療費負担が少なく設定されています。
そのため、延命治療に対してかかる医療コストも自ずと自己負担が少ないため、「する」という選択を取りやすい背景があると感じます。

死生観教育

医療現場で日々感じるジレンマを突き詰めていったときにたどり着いたのは『教育』です。

大切な人の死、いつか自分にもやってくる死を身近に感じて、「縁起でもない」と話題として避けるのではなく、家族間で日常的に話し合う必要があると思います。

順当にいけば、子どもたちより親が先に死ぬということ。
死ぬときはこんな気持ちかな。
いつ死ぬかわからないから感謝はお互いに普段から伝えようね。

こんなことを肩肘張らずに話し合える家族って素敵じゃないですか?

私には2人の子どもがいます。
彼らにはすでに実践しています。

自分がいつ死んでもいいように、なるべく自立できるよう私が知っていることは子どもたちに日々伝えていこう、という気持ちで生きています。

夫にも、「もし私が不意に死ぬことがあってもこの人生にかなり満足しているから『早く死んで不憫だ』なんて思わないでいいよ」と伝えています。
「お墓はなくていいな。管理大変だもん。もしなにか形を残したいなら、家に置いておく用に小さい入れ物に少しだけ骨残してあとは海にまいてくれればいいや。」と話してあります。
出産前にも自分になにかあったときに夫が判断に迷わないように、いろんなパターンのとき赤ちゃんを優先するか母体を優先するか伝えていました。

『縁起でもない』んですが、遺される家族を大切に思うからこそ、決断する苦しさを味わせたくないからこその行動です。

終末期の本人の意思

ここでまた、本人の気持ちを考えてみましょう。
私が遺される家族に決断の苦しさを味わせたくないように、ご本人だってそう思っているはずです。

高齢で食べられなくなったときに、縛られてまで点滴や栄養代替療法を受けたいと思っている患者さんはかなり少ないと思います。

私たちは本人の気持ち、意思を想像してあげることしかできません。
けれど、それが遺される私たちに唯一できることではないでしょうか。

「自分だったらこういう治療は受けたくないな」と思うことを大切な本人に受けさせたいですか?

大切な人の最期の話だからこそ、元気なときに意思を聞いておこう


大切な人だからこそ、最期まで一緒に考えてあげてください。
その人らしさは認知症になっても残ります。
意思や思考は表現できないだけでしっかりとその人の中に残り続けているはずです。

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